平安朝百鬼夜行

第十話:-告白、そして四人草子-

平安朝京極第十話 -告白、そして四人草子-

関口はぼんやりとまどろんでいた。まどろみの中、関口は懐かしい香りに包まれていた。

──彼の匂いだ

その香りは、静謐な、凛とした香り。

──懐かしい

香りに身をゆだねていると、脳裏に声が聞こえる。ぼんやりとした人の形をした幻が二つ立っていた。烏帽子と狩衣姿の男だ。もう一人は角髪(みづら)の少年のようだった。詳細は二人ともはっきりとは見えなかったが、関口はその幻に対して怖れや恐怖を感じなかった。寧ろ、既知に会えた安心感に包まれた。

<・・・君は僕が怖くないのかい?>
<君は、本当は僕が恐ろしくは無いのか?>

遠くで、二人が問いかける。伝わる感情は関口が抱えている他人に拒絶されないかという恐れと良く似ていた。関口は思った事を素直に答える。

──怖くなんか無いよ。君はいつだって優しいじゃないか──

関口は二人の幻に問いかける。

───ねぇ、僕も君に聞きたいんだ。──僕は、僕は君を信じて良いのかい?

二つの幻は微かに微笑んだように関口には思えた。微笑みに安堵して二人に近付こうと歩を進めた関口は、体勢を崩した所為で現へと引き戻される。寝返りを打った所為で枕から頭が落ちたらしい。

「うぁ──、夢、かぁ」

ぼんやりとしたあの人影は誰だったのか、と目覚めと共に薄れていく映像を引き止める事は出来ず、溜息をつく。夢の内容は目覚めと共に忘れてしまう。いつもの事だ。だが、今日は少し違っていた。夢の中で嗅いだ匂いがする。上半身を起し匂いを探しながら周囲を見渡し関口はそれに気がついた。

「あれ」

関口が寝ていた場所から少し離れたそこには、簡単な褥がこしらえてあった。確かに誰かが其処に寝ていたかのような乱れが有った。それに気がつき、関口は昨夜の鬼退治を急速に思い出した。あの後関口は京極堂に送られて屋敷に戻った。京極堂は鳥口に勧められて、食事と仮眠を取る事になったのだ。自分は熱燗に口をつけた後の記憶が無い所を見ると、眠ってしまったのだろう。関口は起き上がると、廊下に出て鳥口を呼ぶ。庭で風景の写生をして居た鳥口が声に気が付き直ぐにやって来た。

「あ、先生起きたんですか。昨日の晩は大変だったそうですね!今日はお休みだからゆっくり寝てても良いんですよ。あ、後で僕の絵を見てくださいよー」

「あ、う、うん。そ、それより京極堂泊まって行ったんだろ?帰るなら声を掛けて行ってくれてもいいじゃないか」

「うへぇ、何度も声掛けたんですよ?でも先生ッたら布団に潜り込んで梃子でも起きやしないから師匠も呆れて帰ってしまったんですよ。客人が帰るのに寝てる主人が有るかって大層お冠でしたよ」

「うっ」

関口は恩人を放置して寝ぎたない姿を晒してしまった事に恥かしいやら後で京極堂にねちねちと言われそうだという予想に言葉に詰まった。そんな関口を見て鳥口が快活に笑う。

「ははは、冗談ですよ!声を掛けたのは本当ですが、師匠が寝かせて置いてやれって言うんで起しませんでした」

「え、な、何だよ、吃驚させないでくれよ人が悪いなあ」

むぅ、と口を尖らせて鳥口を睨むと、鳥口は首を竦めてうへぇ、すみません!と謝った。関口は顔を洗うから準備をしてくれと頼むと、再び部屋に戻る。昨晩は京極堂が泊まって行ったのだ。褥から香るのは京極堂の衣に炊き込めた薫物(たきもの)の残り香だった。何となく手にとって、関口はその香りを嗅ぐ。不思議に凄く懐かしい。どういう調合で作ったのだろう。また、この香の名前はなんだろう。

───そうだ、この匂い。あいつの香じゃないか。この香の調合を今度聞いてみよう。

ふと、彼が今此処に居ない事に物寂しさを感じた。もし居たら、きっと薫物の歴史から作法まで一言一句澱まず語り尽くすに違いない。普段は鬱陶しいとさえ思える彼の薀蓄を今は聞きたいと思った。関口は、工房へ移動し、文机の上の榎木津に頼まれていた事典の挿絵を見る。早く仕上て持って行こう。作業に入ろうと腰を下ろして筆を取り、ふと筆箱を見る。蓋に刻印されているのは桔梗印。この筆箱は以前貴族達に壊された自分の物の代わりに京極堂がくれた物だ。関口はそっとその桔梗紋を撫でる。

──あ。そうだ、

と何か楽しい事を思い付いた様に文机の横の紙を入れている箱から短冊を取り出した。
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事件から五日が経過した。一応、事後処理も片が付き、漸く木場ものんびりとした心持で久し振りに榎木津の所へやって来ていた。京極堂も、今回の事件に際しての触穢(しょくえ)が明けた所で参内していた。京極堂は今朝の卜占にて自らに波乱の相を読み取り、参内を控えようかと考えていたのだが此処暫く鬼の影響で祓えに人手を割かれ暦と観測の手が足りぬと陰陽頭からの要請を受けており、蔑ろにする訳にも行かず参内していた。其処へ帝から声が掛かり、昼御座(ひのおまし)にて三人揃った所であった。

「何だ!君達ばっかり楽しんで!!!ずるいぞ!!」

榎木津が京極堂の後ろを見たかと思うとごねだした。

「別に楽しんでないです。寧ろ迷惑だ。死人が出てるんですよ、不謹慎です」

「僕も暴れたかった!!」

「自分の立場無視してなに言ってるんですか」

仏頂面で、陰陽師は言う。京極堂は関口が自分は兎も角この男に計画を漏らさなかったのは賢明だったと思わずには居られなかった。その思考を読んだのか榎木津が叫ぶ。

「猿だ!!おい、猿君はどうした!」

「彼は宿直(とのい)ですからもう半刻もすれば来るんじゃないですか?」

仁王立ちの榎木津が腰を折り曲げて座している京極堂に顔を近づけ、薄目でジィ、と見る。そして弾かれたように再び上半身を跳ね上げて仁王立ちになると京極堂を指差して言った。

「おい、何で碁盤に猿君がくっ付いてるんだ?」

「碁盤?」

「木場修の事ダッ!!」

「俺が何だって?」

木場が自分の名を出されたので不穏な表情になると榎木津は木場に向かって「おまえええ!!」と奇声を上げた。

「何でお前と猿君が抱き合ってるんだ!!しかも猿め、目に涙溜めてうるうるとぉおおお!!」

「抱き合い・・・?」

京極堂の肩がピクリ、と動いた。

「どういう事です?添い寝してただけじゃないんですか?」

木場のほうを見る。榎木津が今度は木場を指差して叫んだ。

「お前の見た添い寝は抱き合った後だ!!」

榎木津の言葉に陰陽師の顔が見る間に凶悪な雰囲気に変わったのを察知し木場はこの恐ろしい陰陽師に壮大な誤解を受けた事を理解した。同時に榎木津の「視た」場面が何だったかを察した。木場はちっと舌打ちすると、すぐさま反論に出た。

「おい待てこの馬鹿!!変な誤解する表現はやめねぇか!!」

帝に対して馬鹿と言えるのは、この男くらいなものだ。とはいえ、この場以外では流石に許されれない物なのだが。そこへ京極堂の突き刺すような声が飛ぶ。

「ほう?変な誤解をする要素が有るのですか?それでは誤解無きように説明してくださいよ、木場修太郎検非違使佐」

役職名で呼びやがった・・・こういう時の京極堂は怒っている時だ、と経験上知って居る木場は掌に嫌な汗をかいた。

「いいか、良く聞けよ。俺が怪我した部下達の事を気に病んでいたら、見舞いに来ていたアイツが「傷よりも心が痛いんだ」とか言って急に抱きついてきてわんわん泣いてるのをあやしてる内にあいつが寝ちまったから、しょうがないからそのまま居たら、俺も眠くなって来たから仮眠しただけだ!その後京極堂がやってきた、いいか?それだけの事だ」

ばん、と胡坐をかいた膝を手で叩き、厳つい顔で睨み付けた。

「成程」

幾分、和らいだ声音で京極堂は答えた。理解が早い男で助かる、と木場は安堵した。しかし、京極堂は何事かを思い悩むように眉間に皺を寄せていた。

「・・・・つまらん!!僕だけ除け者じゃないかッ!!」

榎木津は榎木津で訳が分らぬと憤慨している。最近は、自分も、関口も余り顔を出していないのが気に入らぬらしい。清涼殿を動けぬ帝と言う立場には同情はするが、その鬱憤晴らしに巻き添えをくう者達の身になってみろと木場は鼻息で溜息を付いた。

「うるせぇ、関口がどうしようが関口の勝手だろうが!」

「下僕は下僕らしく神にかしづいて按摩していれば良いんだッ!!お前は碁盤らしく角張って目を白黒させてれば良いのダ!!」

「誰が碁盤だ馬鹿かテメェは!!」

竹馬の二人のやり取りを他所に、京極堂は考え込んでいる。

「傷よりも心が痛い・・・ですか」

木場は京極堂の呟きに反応した。それは桔梗丸の言葉だ。遠い昔のあの子を思い出す。思い出のかの少年は京極堂──中禅寺の中では色褪せる事はなく、しかし今はその面影に重なるように関口が存在し、二つの影は一つになろうとしていた。

「なんだ?」

「いえ、昔の事を思い出したんです」

榎木津が直に反応する。瞳を輝かせて嬉しそうに京極堂を指差した。

「あ、小猿子犬!」

「あぁ?何だそりゃ」

「僕が子供の頃の友人ですよ・・・桔梗丸と言うんですがね」

「へぇ、桔梗丸かい」

木場が物珍しそうな顔をして聞けば榎木津が茶々を入れ始めた。

「目がくりくりした愛い子だぞ。鴉の初恋だな!」

初恋と聞いて木場の目が丸く見開かれる。この目の前の都が壊滅したかのような仏頂面の男に初恋等と言う単語が───全く持って違和感しか、ない。

「ほお、石仏みたいなお前さんにも初恋とか有ったのか。そりゃ是非聞かせて欲しいぜ」

「しかもだ、信じられん事だが、関猿にもちょっと似てるのだ!!だからこいつは関猿に惚れているのダ!」

「あー、なるほどな。おめぇにしちゃ分りやすいなぁ、やっぱ色事は勝手が違うって奴か」

中禅寺は幼馴染二人の揶揄に苛立ち二人を睨み付ける。桔梗丸と関口の事は慎重に進めて置きたいのだ。今や確信を持っているとは言え、まだ関口の過去や関口自身の力には謎が多い。つい先日とて鞍馬への道中で中禅寺の言葉に錯乱しかけ、八重事代主神をその身に帰神させ、そして羅城門で他人の記憶に同調し錯乱したのだ。恐らく内裏にやって来てからの出来事により、関口への様々な──此処に居る三人を含め、幾つかの事件や出来事による外部刺激が彼の無意識に働きかけ、記憶の封印が緩くなって来ているのだろう。明石の師匠もその事を鞍馬で指摘した。本人も気付かない内にかなり不安定になって来ているのだ。辛い記憶を戻しても関口が壊れないように手を打たねばならぬ。だが如何すれば良いか、どの程度の負荷を関口に掛ければ良いのかの加減が今一つ確信出来ぬのだった。そんな中禅寺の心中を知ってか知らずか、目の前の二人が囃し立てる。

「わははは!お前の頭の中猿君だらけじゃないか!ぐずぐずしてないでさっさと好きだと告白してしまえば良いのだ!」

「煩いなあ、人の頭の中覗くの止めて下さいよ」

「関猿相手に奥手も無いだろうが。お前が関猿大好きなのは傍から見てればバレバレだ!それなのにいつもネチネチ猿を虐めるとはなんて変態だ!!お前の可愛い子猿犬かも知れ無いんだろうが、もっと可愛がってやれば良いのに!」

「お前もいい加減天邪鬼だなぁ、おめえ関口が他の奴と居る時の目、自分で分かってんのか?今もそうだったが、俺と先生が昼寝してたのを見たアンタの顔、流石の俺も肝を冷やした位だぜ」

「お前が要らないなら僕が関を貰うと言ってるだろう!僕はお前みたいにネチネチと遠回しに関の気を引こうとしたりしないゾ!!関猿を可愛いと思えば可愛いと云うし、好きだと思えば好きだと云うのだ!!」

酒も入った所為かここぞとばかりに有る事無い事盛り上がる幼馴染二人の共同攻撃に、暫く耐えていた中禅寺の堪忍袋の緒が切れた。

「しつこいですねあんたらも!人の思い出を勝手に捏ね繰り回して草臥れさせないでくれ!大体あの男と来たら自分の技量も弁えずに面倒事に首突っ込んで、人の忠告も聞かずに毎度毎度己の首を絞めちゃあ自分に閉じ篭り、結局後始末は他人に任せっきり、なんだってこの僕がそんな面倒な男の気を引かなくちゃあならんのですか!実際迷惑ですよ!!一応あんた等の関係者だからそりゃ目に入るわけだし、その程度には僕も気には掛けますけどね!!そうでなければ誰があんな胡乱な男に───」

床を叩いて怒鳴る京極堂を見る榎木津と、木場の表情が凍りついた。その表情を見て京極堂も流石にこれは大人気無さ過ぎると落ち着こうと思った矢先。

「ごめん・・・本当に・・・ごめん、やっぱり迷惑だったんだね、あの、僕、もう」

京極堂の背後から、今、一番、彼の言葉を聞かれてはいけない人物の声がした。

「君の視界に入らないようにするから──帝、木場様、すみません、今日はこれで───失礼いたします」

震えた声でそういうと、微笑んで。関口はことり、と朱塗りの箱を床に置いて部屋を辞した。その様子があまりに静かで、消え入りそうに儚げで。いつもの不安定な無駄な動きの多い関口からは想像もできない所作に、榎木津も木場もその場から動けなかった。空気が、暫くの間凍りついた。

「おい・・・いいのか」

木場が沈黙を破った。

「良い訳無いだろう」

榎木津が答えた。そして立ち上がって怒鳴った。

「僕の猿だぞ!!壊れたら如何してくれるんだこの馬鹿呪い師!!追いかけるぞ木場修!猿を捕獲せねば、ぼーっと道に飛び出して牛車に轢かれてしまうかも知れん!!!」

榎木津が部屋を飛び出す瞬間、京極堂を見やった。京極堂は背を向けた儘色を無くした石のように固まっている。

「馬鹿で胡乱で自分の首を絞めてるのは、お前だ京極堂!!もう良い、関は僕が貰うぞ!!お前は思い出にでも縋っていろ!!」

京極堂が、はっとして振り向いた時には、榎木津と木場の姿は無かった。

「・・・僕は・・・なんて事を」

やっとこの手に入れ掛けたものを、自分自らの言葉で失ってしまった。やっと、僕にあの柔らかい表情を見せてくれる様になったのに、漸く彼だと確信したのに───言葉に対して最も慎重で有らねば成らぬのはこの自分自身であると言うのに───


「・・・僕は愚か者だ!!」

追いかけようとして関口がおいていった朱塗りの箱に目をやる。誰宛なのかは分からない。榎木津宛なのかも知れない。でも。この箱を置いたとき、確かに関口は自分を見て哀しげに微笑んだのだ。開けなくては、と思った。

其処には、布に包まれた数枚の紙が入っていた。紙のほうは、榎木津に頼まれていた分であろう植物画。精密な中に、関口らしい優しさが込められている。己が受身である為に、己以上に受身である物言わぬ植物達への共感と同情、そして優しさ。榎木津はこの画風を愛しているのだ。そして自分も。

ぱらぱらとめくり、植物画を箱の外に除けた。そして、箱の底に綺麗な和紙で包んだ短冊を見つけた。

桔梗の絵が描かれている。関口の手に依るものだろう。そして和歌が書かれていた。緻密な絵と反比例してけして上手いとは言えない字ではあるが、それが関口らしさを出していた。

「大船の思ひ頼みし君が去なば我れは恋ひむな直に逢ふまでに」
(大船のように頼みにしていた君が去ったら、僕はさぞ恋しいだろうなぁ。今度直接君と会うまでは)

体が震えた。桔梗。それは僕だ。僕であり、そして君だ。激しい後悔の念と、自分に対する怒りと、関口に対する想いが体から噴出さんばかりだった。もう誤魔化しは効かない。

「関口・・・!!」

弾かれたように立ち上がると部屋を飛び出した。

「放せ!猿を捕獲するのだッ!!」

「帝は簡単に内裏から出られません!!」

「榎木津、後は俺らに任せろ、おめぇは猿に粥でも炊いて待ってやがれ!」

関口を追って内裏から出ようとしている帝を宮中の者達が流石に押しとどめている
榎木津はそいつらを薙ぎ払って行かんばかりだ。

「おめぇが動くと、却って関口の身があぶねぇんだ!!てめえの立場を考えろ!」

「神が自分の下僕を迎えに行って何が悪い!どくのだ!離せ木場修ッ!!」

「おめぇが喚く度に関口が犯罪者扱いされるんだ!!おめぇも関口を壊す気か!?落ち着けいい加減!!」

其処まで言われて、漸く榎木津は暴れるのをやめた。

「む・・・!猿は何にも悪くないぞ!!可哀相なんだッ!!悪いのはあいつだ馬鹿陰陽師!!」

「分かってる、必ず連れ戻すからおめえは待ってろ」

木場の視線が、内裏の奥へ移動した。

「それに、アイツも腹を括ったみてぇだしな」

顎をしゃくり上げ後方を示す。榎木津が振り向くと、陰鬱とした表情の陰陽師が此方へ歩いてきていた。

「この馬鹿陰陽師ッ!!絶ッ対連れ戻して来い!!関を壊したら承知しないからなッ!!」

「分かってますよ・・・帝。あれは僕のものですからね」

「いいや僕のものだッ!お前は要らんのだろうが!」

「・・・今度ばかりは、僕は自身の非を認めます。正直に言いますよ。僕は彼を本当は誰にも渡したくないんです。例えそれがあんたでもね。そして。もう確信しました。彼が僕の桔梗です。帝。・・・約束ですからね、彼は僕のものです」

「・・・京極堂・・・おめぇ」

「フン、やっと本音を言ったなッ。だから最初ッからそう言えば良かったのだ!!」

榎木津は胸をはってにやりと笑った。

「猿は神たる僕の下僕だが、飼育係はお前に譲ってやる。上手く飼いならしてみるがいい」

「お言葉、有り難くて涙が出ますよ」

「京極堂、宛はあるのか」

木場が問う。

「ええ、大体は」

「じゃあ、任せて良いんだな」

「僕以外に、誰が彼を連れ戻せると言うのです」

そういうと、陰陽師は振り向きもせず内裏を立ち去った。


あの事件の後、直ぐに関口はあの大鬼のために墓を立て、供養してやったと聞いた。その為に細かい仕事で溜めたお金を全部支払ってしまったと昨日市で偶々出会った鳥口が愚痴をこぼしていた。
中禅寺はその鬼の墓のある寺へ来ていた。関口は本来なら郊外に打ち棄てられ野晒しになり朽ち果てて然るべき者を木場に頼み込んで遺体を引き取り、墓を立て埋葬したのだった。寂れた墓地の中の奥まった場所。其処に、真新しい石塔が見える。その前に膝を抱えているのだろう、烏帽子を被った小さい丸い背中が見える。関口だ。中禅寺は思わず駆け寄りたくなるのを堪えて背後に近寄った。

「・・・鬼の為に墓を作ってやるなんて奇特な男だな」

「!!」

振り向かずに、肩がびくんと震えた。ますます小さくなる。

「関口君」

膝に顔をうずめたまま動かない。

「関口君、聞こえているのだろう?」

「・・・な、何しに来たんですか・・・迷惑なんでしょう?僕、いえ私の事は放って置いて下さい・・・ああ、そうか榎さんに言われたんですね。すみません、私の所為でまた京極堂様に余計な御足労を掛けてしまいました───。で、でも、帝には後で私が怒られに行きますから、どうぞお引取り下さい」

関口は抑揚の無い聞き取りにくい声で言った。勿論中禅寺がそれを聞き逃すはずはなかった。

「まあね。でも、さっき言った事は半分は本当の事だろう?君自身自覚が有る程にね。僕は事実を述べたまでだ」

びく、とまた背中が硬くなる。小刻みに肩が震え顔を両手で覆い泣いている様だった。関口に敬語で話し掛けられて中禅寺の心が軋んだ音を立てる。関口に一線を引かれ、彼の心から弾かれた胸が痛む。今すぐ抱き締めて無理にでも連れ帰りたい衝動を抑え込み語りかけた。

「でももう半分は僕が悪かった。僕が君の事を気に掛けていないとか榎さんの関係者だから止むを得ず関わっていると言うのは本心ではないのだ。僕は僕の意思で君に関わっている。これは断じて嘘では無い。だから敬語は止めてくれないか、───頼むから」

関口は黙っている。中禅寺は関口があの大鬼の為に立ててやったという墓を眺めた。

「───立派な墓じゃないか」

「───国に帰してあげられないし───せめて人として眠らせて・・・あげたかったんだ」

「君らしいね」

そういうと、陰陽師は手を合わせた。

「───」

「君のそういう所は嫌いじゃないよ。ほら、風が冷えてきた。内裏へ戻ろう。そろそろ逢魔ヶ時だ、場所も場所だし魑魅魍魎が湧き出てくるぞ」

「───」

「先日の今日で本物の鬼に食われたくはあるまい?」

漸く関口はふらり、と立ち上がる。俯いて目を伏せ中禅寺には一瞥もくれずに歩き出す。中禅寺は溜息をついた。それから大鬼の墓を見る。墓は立派な造りだった。関口の想いが込められている。冷たい風が墓の周囲に小さなつむじ風を作り、地面の枯葉を舞わせた。かの大鬼は静かに眠っている。ただ、陰陽師である中禅寺──京極堂には、幽かに彼の魂が関口を心配しているように感じられた。

「全く、困った奴だよ。いや、困った奴はお互い様か。───あぁ心配無用だよ、そう簡単にそっちへは行かせないさ───」

そう墓に話しかけて踵を返し関口を追った。

寺から出て関口はとぼとぼと歩いている。牛車の京極堂はそう時間も掛からず追いついた。

「ほら、牛車に乗りたまえよ。内裏に行くんだろう?榎さんも木場の旦那も心配している、送って行ってやろう」

「・・・歩いて行くから良いよ」

「君の牛より遅い歩みでは内裏に付く頃には真夜中だぞ」

「ほっといてくれよ。今日は帰る。君は内裏に行けばいいさ」

「そうか、じゃあ家まで送ってやろう。内裏には僕が報告して──」

「ほっといてくれって言ってるだろう!!」

関口の声は怒りに震え、泣いていた。きっと見上げた顔は悲しげに歪みつつもその目には怒りが満ちていた。

「関口」

「帰ってくれよ!!僕なんかほっといてくれ!!本当は僕が迷惑なんだろう!?分ってたよ最初から!!皆本当は僕の事なんか邪魔なんだ!!良いよ興味なんて持たなくて!!どうせ僕は胡乱で馬鹿で不器用で容姿も悪いし何の特技も無い!!余計な事に首を突っ込んでは失敗していつも回りに迷惑をかけてるよ!!だから、だから僕は目立たないように生きてきたんじゃないか!!何時僕が君たちに構ってくれって頼んだんだよ!!勝手に君達が巻き込んだんじゃないか!それなのに皆して僕を引きずり出してはそうやってからかって、馬鹿にして!!いつだって僕をずたずたにするんだ!!───飽きて要らなくなったら僕なんか塵の様に捨てるくせに───優しい振りなんてもう沢山だよ───そうやって僕に今度は何をさせる気だい?稚児か?白拍子か?川原乞食の真似か!?───うふ、うふふ、今宵は私がお相手を───うふふ、遊びましょう?───ほら、貴方様、ふふ───ほら、お望みなら───今此処で裸で舞ってやろうかッ!!」

関口は着物を引き破かんばかりに泣きながら叫び、笑い、舞う様に誘い、そして再び怒り喚く。何時もの穏やかで人に怯えている関口では無い。押さえ込んだ感情と記憶が一気に噴出していた。

「関口───!」

京極堂は急ぎ牛車から降り、関口の元へ駆け寄る。関口には最早京極堂の存在は見えていなかった。其処に居るのは、彼の目に映っているのは、

「あははは!誰も彼も面白がっているんだ・・・僕が壊れるのを待ってる!君もだろう!?仏に仕える身が聞いて呆れるね!くくく・・・!あいつ等と来たら女犯が出来ないから代わりに毎晩代わる代わる猫撫で声で僕を呼んで、僕に酷い事をするんだよ。嫌だって言ったら酷い折檻だ、何が稚児灌頂だよ何が菩薩の化身だ───!!内裏の連中だってそうさ!皆、僕をぼろぼろになるまで犯し遊びながら、壊れてしまえばいいと思ってるんだッ!!・・・僕の所為で、皆が罪を犯すのなら───僕なんか、消えてしまえば良いのに!───あぁ、誰か、僕を、消して・・・もう嫌だ、消してくれ───!」

中禅寺の胸に関口の心の叫びが幾千本もの刃として突き刺さったかの痛みが走る。助けてと此処まで追い込まれても叫ばない関口の悲鳴が鋭い痛みとなって中禅寺の心臓を鷲掴みにした。

「関口、僕を見るんだ、僕の声を聞け、関口巽!」

中禅寺は関口を抱き締め、顎を掴んで目線を合わせ何時もの様に落ち着かせようとしたが、関口は錯乱して遠い過去の記憶と近い過去の記憶が一緒に噴出し意識が混濁して最早声が届いていない。このままでは───。

「すまない、巽」

そう呟くと呪法を吐き強制的に関口の意識を奪った。意識を失い倒れこむ関口を支え、牛車に乗せる。

「屋敷へ戻る」

そう牛車に告げた。
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冷たい夜の風が御簾の隙間から吹き込み、その冷たさに関口が目を開けると、見えたのは燭台に照らされた見慣れない天井だった。こじんまりとした部屋だが調度品も品が良く、清廉な印象を与える。ここは・・・と、視線で部屋を探る。落ち着いた香りのする部屋だった。

りぃん、と何処かで風鈴の音がした。

「目が覚めたかね、関口君」

奥の御簾が開き、盆を手に持った京極堂が現れた。関口の意識がはっきりしているのを確かめると表情は安堵したように穏やかになった。関口は何故此処に居るのか直ぐに理解できずおろおろと掛け布を握り締めて身動ぎした。

「・・・!きょ、ごく・・・ここ、は」

「僕の屋敷だよ。気分はどうだい」

そういうと京極堂は碗に入れた茶を差し出す。びくりと怯える関口に苦笑して、穏やかに受け取るように促した。

「飲み給え、落ち着く。君と来たら何度も僕の屋敷には来ているのに分らなかったのかい?ああそうか。この部屋には君を通した事は無かったね」

香りの優しい、琥珀色のお茶だった。関口は黙って受け取ると、一口飲んで、両手で碗を支えてお茶を眺めた。京極堂はその様子を観察していた。今はもう落ち着いているようだ。記憶の混乱も見当たらない。何時もの関口だった。錯乱した時に口走った事は忘れているようだが、何処まで今日の一件を覚えているのか確かめねば。京極堂は関口を刺激しないよう努めて穏やかな声音で話しかける。

「・・・隣に座っても良いかい?」

「・・・・」

怯えた様な表情で、関口はどう答えて良いのか分らないように、落ち着かなく目を泳がせて細かく頷いた。

「否が無いなら座らせてもらうよ」

京極堂は、関口の隣に腰を下ろした。

「やれやれ、今朝の卜占で波乱の相が出たから内裏には行きたくなかったんだがな。災いを予知出来ても回避出来ない事もあるのだよ。君が思うように僕も万能では無いんだぜ。───さて、君が内裏から飛び出した事は覚えているかい?」

関口はびくりとして京極堂を見た。記憶を反芻する。書き上がった挿絵を持ち、内裏へ行った。そして、

「───ぼ、僕は───ぁ──!」

青褪めて言葉を失う関口。高々一介の絵師が帝の許し無く内裏を飛び出すと言う騒ぎを起したのだ、お咎めは免れまい。それに、薄っすらと脳裏にこびり付く記憶の断片が急激に不安を掻き立てた。僕は何をして、何を言ったのだ。冷や汗を掻いて震えだす関口を見て、京極堂が関口の肩に手を置いて声を掛けた。

「覚えているようだね。───大丈夫だよ、内裏の件なら君に罪は無い。榎さんも木場の旦那も証人だ。───その後の事は───はぁ、全く、面目無い。君を傷付けるつもりは無かったのに───僕は既に鬼になっていたようだ」

「お、鬼」

「天邪鬼、と言う鬼さ」

「あまのじゃく・・・」

「人の心を察して口真似などで人をからかう妖怪だ。転じてひねくれ者やつむじ曲がりを形容する言葉になった」

関口は大きな瞳を更に大きくして京極堂をじっと見た。京極堂は困ったような表情でしかし真っ直ぐ関口を見ていた。

「だが今回は一寸やりすぎた。あの竹馬の二人にまんまと挑発されるなんて僕とした事がとんだ失態だったよ。関口君、僕が悪かった。今回は本当にすまなかったと反省しているのだよ」

「きょう・・・」

京極堂は懐から短冊を出して見せた。桔梗の絵に和歌が書かれた短冊だ。

「・・・僕にだろう?・・・ありがとう」

「・・・!」

関口は反応して縮こまる。やはり、京極堂はこの短冊が自分に宛てたものだったと確信して口元が緩んだ。

「君がそう思ってくれてたとは嬉しいね。・・・実は僕もね、君が去った後はいつも次に会う時までずっと恋しいんだよ。いつからかなあ。初めて君を見た時からかもしれない。無意識にいつも君を探してた気がする」

京極堂の語り掛けに、関口の肩が震えた。震える声で歯を食いしばるように言った。

「うそ・・・だ・・・僕のことなんか・・・もう、騙される物か」

「嘘な物か」

京極堂はきっぱりと否定する。そして言葉を続けた。

「僕は人を呪ったり祝ったり、人の心を言葉で動かす陰陽師だ。確かに僕は謀る事もある。しかしそれは、仕事であって僕の本心からの事では無い。本当の事だけでは成立たぬ事もこの世には多すぎるのだ。まして僕らの仕事は陽の当たらぬ仕事をこなさねばならぬ事も多いのだ。───関口君。では僕自身の心は誰に癒してもらえば良いのだろうか。君は僕を完璧な人間だと思っているかも知れないが、僕とて心が痛い事も有るんだよ」

「・・・京極堂・・・でも、でも僕は、君の役に立てそうに無いよ、だ、だって、僕は──」

京極堂は相変わらず困ったような顔で関口を見ていた。関口は視線に耐えられず俯く。

「僕はね、関口君。あの時、あの鬼の彼にねぇ。<そこの男だけは返して貰う>と言ったのだ。彼は<お前にとってこの男は何だ>と聞いて来たのでね、<僕の蘭だ>と言ったのさ。そうしたら彼は僕に弟の話しをしてくれたんだ」

──蘭。蘭とは。

関口は驚いたように顔を上げた。この大鬼とあの時そんな会話をしていたのか。

「だって、き、君は、ぼ、僕を知人だって」

それは易経からの引用だった。「二人同心、其利断金。同心之言、其臭如蘭」(二人が心を同じくすれば、その利、金をも断つ。心を同じうする者の言は、その臭(かお)り、蘭の如し)転じて、金蘭とも言い固い絆で結ばれた絆を言うのだ。関口は京極堂の言わんとする意味を計りかね、困惑した。京極堂は苦笑する。

「何だ<蘭>の意味は一瞬で分るのに、<知人>と言う意味はまだ分らないのかい?───関口君。友人と知人は似て非なるものだ。僕は君を差別している訳じゃないよ、知人と言う言葉の真の意味を理解した上で区別をしているだけだ」

「そ、そんな、意味って、他に何が」

意味が分ら無いと首を振った。京極堂は右手で頭をボリボリと掻き始めた。

「こんな事は言う積もりじゃなかったんだが・・・。あの日、どうして僕がわざわざ月食の観測を止めてまで羅城門へ行ったと思うんだい」

「・・・。き、木場の旦那に頼まれたのかい・・・?」

「違うよ。木場の旦那は寧ろ君の心意気を買って僕に何も言わなかった。でもね」

そう言うと、京極堂は関口の肩を引き寄せた。碗の中の茶が揺れる。

「あの日の君たちを思い出してまさかと思ってね。本来同行する陰陽師にあの日の計画を問いただしたら、君が囮になると言うじゃないか」

関口の肩を掴む手に力が篭り、関口は身体を強張らせた。

「何故こんな大事な事を僕に相談しなかったのかと、腹は立つしそんなに僕が嫌いなのかと哀しくなるし、けれどもし君が怪我をしたり命を失う事が有れば僕は───とても耐えられそうに無い」

固まる関口を京極堂はそのまま抱きしめた。

「だから僕が向かったんだ。ただ君一人を取り戻したい為にね。恐らく術を使わねば君を取り戻す事は出来ぬだろう、でもたとえ僕の力を見て君が僕を怖れて近寄らなくなったとしてもあの時、君を失うよりは良いと思った。でも、君は僕を頼って手を差し出した。君から拒絶される事を怖れていた僕を、君自らが癒してくれた」

「きょ、きょう・・・」

京極堂の腕に抱かれたまま関口は思わぬ告白と状況に言葉が出なかった。

「関口君、僕は君が好きだ」

抱き締める腕に力を篭め中禅寺はきっぱりと言った。その強い言霊は関口の胸に響き、関口を呑み込んだ。心臓が早鐘の如く打ち、全身の血が駆け巡る。そして、胸を締め付けるような痛みを感じた。これは自分の痛みでは無い。京極堂の痛みだと関口は直ぐに理解した。

「心が・・・痛い、き、君の」

「ああ、痛いよ。分かるのだね。そうだよ<君には分かる>はずだ。君を想い乍も君を傷つけ、手を差し出しても報われず、でもやっぱり君が好きでどうしようも無く心を乱され続けているのだ」

「ん・・・」

「この痛みを癒せるのはね。君だけなんだぜ」

おずおずと、関口はお碗を床に置き、京極堂の背に腕を回す。この痛みを振り解く事はできなかった。彼の背を抱けば衣を通じて切ない痛みが伝わって来る。それは関口を包み込み、関口の手が京極堂を受け入れた事で彼の心に変化が起きたのか強く切ない痛みが優しく色を変える。それは体の芯を揺さぶる甘い痛みでもあった。京極堂は少し体を離して関口を見つめて言った。

「覚悟したまえよ関口君。僕は嫉妬深くて独占欲の強い男だ。君への想いを認めてしまった以上、僕は君を」

関口の顎を持ち上げ、唇を奪う。関口は今、何が起こったのか分かっていないのかもしれない。

「んっ・・・!?」

突然の事に身を捩って逃げようとする関口の後頭部を確りと抱え固定して更に強く抱きしめ、口腔を貪る。

「ん、んんっ!んーっ」

関口の抵抗を物ともせず暫く押し付けていた唇を離し京極堂は少し荒げた息で、漸く開放されて潤んで涙を溜めた関口の目を真っ直ぐ見て言った。

「───誰にも渡さない」

「き、京極堂・・・っ・・・」

「もう帝も木場の旦那にも君には手を出さぬ様に約束させた」

「・・・・えええっ!!」

真っ赤になって目を見開く。帝や木場の旦那まで関わっているのか。つまり、京極堂がその、自分に対してこういう事をする事を黙認しているのか。自分の周囲で何が起こっているのか分らず、関口は困惑し、言葉も出なくなった。

「帝が君の飼い主で、僕が飼育係なんだそうだ」

「な、なにそれ・・・」

「まあそんな事は別にいいのさ。重要なのは。君が僕の側に居ることなんだ」

関口は困惑した表情で京極堂を見つめた。

「だ、だって、僕達は、その、お、男同士なんだぞ??」

「それが如何した」

「如何したって・・・っ、そ、それに僕は、君に相応しくない、だって、僕は」

───卑しい人間だ。

薄っすらと脳裏に残った記憶の残渣は、けして良い物では無かった。はっきりと思い出せないが何となく分る。自分の過去は、他人に語って良い物では無いのだと。関口は項垂れて首を横に振った。だが京極堂はそんな関口の肩を再び抱いた。


「人を愛する気持ちに男も女も有るかい。言って置くが僕は衆道じゃぁないし稚児にも興味は無い。だが人並みに誰かを恋慕する心は持って居る積りだ。至って普通な事だろう。たまたま好いてしまった相手が君だっただけの事だ。君か僕が女になれるなら其れでもいいが、そりゃ無理だろう?だから僕は僕らの性別が同じである事を否定する事はしないよ。でも、性別が同じであるからという理由で君を好いているという僕自身の心を偽り否定する事もしない。その代わり、君が世間から被るであろう重圧も責任も僕が被る。君が失った過去も思い出さないなら出さなくて良い。思い出したとしてもそれは過去の事だ。今更そんな物に囚われなくて良い。君は君の儘で良いのだよ、関口君」

優しく関口の頬を撫でながら淀みなく京極堂は語った。どんな過去を背負っていても受け入れると言う京極堂、しかし関口はこの好意を受け入れる事に抵抗を隠せなかった。自分が女であればこの言葉にきっと涙を流して喜び、胸に飛び込んだだろう。しかし、自分は男であり、彼もまた男だ。そもそも衆道には色んな問題が山積しているのだ、幾ら京極堂とは言え世の仕組みまで変える事は出来まい。家庭を持つ事すら叶わないではないか。

「男同士じゃ結婚とか、出来ないじゃないか・・・」

「僕は君が望むなら正式に結婚しても良いよ。そんなものただの形式じゃないか。後ろ盾が欲しいなら、あの帝なら大笑いしてなってくれると思うぜ。それに、結婚しなくても一緒には住めるだろう?」

「こっ、子供は?子供とかどうするんだよっ」

「欲しいのかい?」

「ぇ、いや、僕は・・・き、君だよ!家を継いで貰わないといけないんじゃないか?!」

「別に。どうしても必要なら養子でも貰えば良いし、うちには妹も居るから大丈夫だろ」

「・・・」

「他に何か質問は?」

京極堂は口角を上げて愉快そうに、失語状態になりつつある関口を見ている。

「あ、あの京極堂・・・」

「秋彦だ」

「え?」

「中禅寺秋彦。これからは内裏以外では本名で呼んでくれ。巽」

「えっ」

「京極堂は僕の渾名だよ。この庵の名がそういう風に呼ばれているからね。内裏では呪詛を防ぐ為に本名を使うのは僕らは憚られるから丁度良いのだが、それ以外では君には名前で呼んで欲しい」

「中禅寺・・・」

関口の答えに中禅寺は嬉しそうに口角を上げると関口を再び抱きしめる。

「こうしている時は秋彦で良い───巽」

再び甘く切ない痛みに包まれて関口の肩が震える。

「あ、あき・・ひこ」

「なんだい?」

「え、いや・・・その」

呼んでみただけとは言えなかったが、中禅寺はその事に付いて追求しなかった。代わりに中禅寺はあの短冊の事を口にした。

「どうして短冊に、桔梗を描いたんだい?」

関口は軽く頷いて思い出すように言った。

「う、うん・・・ほら、君の紋は桔梗印っていうんだよね。その所為かな、桔梗を見ると君を思い浮かべてしまうから・・・変かな」

「いや、変じゃない。その通りだよ。僕の紋は晴明桔梗印と呼ばれている。それだけじゃない。桔梗と、僕と、そして君は繋がってるんだ」

そういわれて関口は不思議そうな顔をしたが一寸嬉しそうに微笑んだ。

「桔梗の花の意味を知っているかい?」

「え、ええと、変わらぬ心・・・だったかな」

視線を中空に流し、関口はその花の意味を思い出して言う。それを聞くと中禅寺は微笑んだ。

「ああ、やはり君は・・・僕の桔梗なんだね」

そう、あの当時の記憶を失っているが、やはり彼こそ、あの<桔梗丸>なのだと。

「え?」

「桔梗の花言葉は他にもいくつかあってね。誠実、従順・・・それに。変わらぬ愛、という意味も有るんだよ」

「・・・変わらぬ、愛・・・」

中禅寺は口の中で繰り返す関口の頬に口付け、

「巽」

名を呼び肩口に顔を埋め、そのまま褥に関口を押し倒した。

「!ちょ、京極堂ッ」

「秋彦だ」

すかさず中禅寺の窘めるような声。関口は慌てて言い直す。

「あ、秋彦ッ」

「巽・・・愛してる。あの時からずっと・・・君を」

「え、え、・・・え?あ、あの時?ちょ、ちょっと待って、あの時って」

置かれている状況と彼が語る言葉の意味が分からなくて混乱する。いやそれよりも。もしかしてこの状況は。

「い、いやそれより、あ、あの、もしかして、あのっ・・・」

「何だい?」

「ね、ねぇ、まさか、この後、まさか、まさか、君」

「何を期待しているんだい」

中禅寺は関口の顔の至近距離でニヤリと笑みを浮かべた。関口の背筋に冷たいものが走る。

「き、期待してないっ!!」

頭を振って真っ向否定した。覆いかぶさったまま中禅寺は苦笑する。

「ああ、そうだ。君とまぐわりたいよ」

と関口の白い首筋を舐めた。

「!!!ッ!!」

とたんに関口の表情も体も硬直する。全身が石の様に強張り、息も止まりそうな様子だった。それを見ると、寂しそうに中禅寺は笑った。此処が限界のようだ。このまま続ければ彼はまた壊れてしまう。

「・・・分かってるよ。嫌なんだろう?無理強いはしない。君を壊したくないから」

それを聞いて関口は、とりあえず安堵した。

「でも、いつ我慢出来なくなるかも知れない。僕だって男だからね。好きな人が近くに居るのに触れられないなんて拷問に等しいじゃないか。言っておくが僕は聖人君子じゃないし、なろうとも思わない。情欲を美化もしないし誤魔化したりしないぜ。それに君は八方美人だからね、他の男と仲良くしている姿を見たら僕は嫉妬でおかしくなるかも知れない。せいぜい気を付けてくれ給えよ」

「ちゅ、ちゅうぜんじぃ・・・・」

泣きそうな顔になる関口。そんな関口の耳元で中禅寺は囁く。呪を掛ける様に。

「君は僕のものだ、たつみ・・・愛してる」


翌朝・・・になっていた。出仕までもう一刻ほどだ。関口はまだ眠っている。結局昨夜は何だかんだと口説いている内に関口が意識を失ってしまい抱く事は叶わなかったが、今は十分だった。時間はたっぷりあるのだ。まずは彼の抱えている傷を癒さなくては。昨日、錯乱しながら叫んだ関口のあの言葉は、彼の幼少時代から少年時代にかけての酷く辛い心の傷を表していた。そんな状態で彼を抱けば、自分もその男達と同じになってしまう。

−−−いつだって僕をずたずたにするんだ!!−−−

−−−今度は何をさせる気だい?稚児か?白拍子か?川原乞食の真似か!?お望みなら今此処で裸で舞ってやろうかッ!!−−−

−−−嫌だって言ったら酷い折檻だ、何が稚児灌頂だよ何が菩薩の化身だ───!!−−−

−−−あぁ、誰か、僕を、消して・・・−−−

中禅寺は眉をしかめ、眠る関口の髪を撫でた。

「巽・・・」

彼の繊細な精神をそしてこの華奢な体を今までどれだけの男がずたずたにして来たのだろう。
その度にその傷を忘却という封印を施して彼は何とか生きてきたのだ。その封印された傷の中に自分とのあの思い出も入っているのだろう。自分と別れたあの後、関口は寺に遣られて・・・稚児となった。桔梗丸の容貌なら、寺の男達は恐らく黙っては居ないだろう事は容易に想像できる。

幼い巽は彼らの欲望の餌にされて来たのだ。体が震える。怒りと、何も出来なかった不甲斐無さと。どんなに心細かったろう、どんなに辛かったろう。其れでも幼い巽はそれを受け入れざるを得なかった。
あの小さく幼い体で、巽は獣共の欲望を数え切れぬほど受け入れて───身体も、心までも犯されてぼろぼろにされていたのだ。

「巽・・・君を・・・彼岸になど行かせるものか」

あまりの辛さからあの僅かな平和なひと時の思い出をも封印し、漸(ようよ)う俗世に解き放たれた時には昔の自分を殺さねば均衡を崩して壊れてしまったのだろう。
其れでも、彼は「桔梗」を忘れなかった。それは自分との繋がり。かわらぬ心。自分の屋敷に桔梗を植え、短冊に込めた花の意味。表層意識が壊れないように無意識の中ではあるが、関口はあの頃から自分を忘れては居なかった。
首筋に顔を埋め、確りと痕を付けた。関口はくすぐったいのかうぅん、と身を捩ったが起きることは無く昏々と眠る。眠りは彼の精神を癒す唯一の防衛本能なのかも知れない。
しかし、そろそろ起きて内裏に行かなければならないだろう。

立ち上がり、着物を正し、身づくろいを整える。そして関口を揺り起こした。
相変わらず小動物が丸くなって眠っているような、そんな状態。愛らしく思いつつも、それはそれこれはこれだ。

「関口君、起き給え。そろそろ出仕の時間だぞ」

揺り起こされた関口は、うぅん、と寝返りを打つ。一晩で無精髭が生えている所はやはり男だなと思わされる。起きたら剃ってやろうなどと思いつつ、関口に声を掛ける。

「関口君」

「うぅん・・・・もう少しだけ、鳥口くん・・・」

その瞬間。びしっと、中禅寺の回りに放電したような気が走った。

「関口君・・・・?」

声に冷たさが混じる。中禅寺は上掛けを剥ぐり、起き給えと続ける。関口はそれでも目を開けずに冷たい朝の空気にぶるっと身震いしつつ、縮こまると甘える様な声で言った。

「もう一寸だけぇ・・・鳥口くぅん・・・たのむよ・・・」

今度はびしびしと音が聞こえそうな放電が部屋に走り、遂に中禅寺の苛立ちが頂点に達した。

「関口君────起き給えッ!!!」

床をばんと踏み鳴らし地獄の其処から響くような大声で中禅寺が怒鳴った。床の振動と怒鳴り声に驚きすぐさま飛び起きる関口。枕を抱き抱えてわたわたしながら彼方此方きょろきょろと見遣りながら情け無い声で叫ぶ。

「ひぃっ!?な、なに!?地震?雷ッ!?」

「関口君、君はいつも起きる時に鳥口君の名を呼ぶんだねぇ。まさか君、鳥口君と出来ているのかい?」

朝っぱらから地獄の鬼が目の前に居るような錯覚に陥る。此処は地獄なのか!?というより何で京極堂が怒っているのだと何がなんだか分らない関口は返答のしようが無かった。

「え?ええ?」

中禅寺は何時にも増して凶悪な顔で関口を睨み付けながら賭け布を後ろへ蹴り遣ると関口の前にしゃがみ込み、関口へ顔を近づけた。

「鳥口君に毎朝どんな起こされ方をしてたんだい??さぞかし親密な関係だったんだろうねぇ───」

「ち、ちが、そ、そんな」

枕を抱えて怯える関口。別に普通に鳥口は起こしていたはずだ。変な事をされた覚えは無い。寧ろ此処に居るこの男の方が危険極まりない。 

「これからはこの僕が<毎朝>起こしてあげるよ。有り難く思い給え」

「・・・えっ!?」

「僕の名前を呼ぶまで、毎ッ朝!起こしてあげようと言っているのだ」

「い、いやそこまでしなくても、君も仕事柄朝早いんだし、そ、それにう、うちまで来るの大変だよ??だ、だって逆方向じゃないか」

中禅寺はふふと鼻で笑うと、関口の頬を撫でながらにやりと凶悪な表情(かお)で笑う。

「心配しなくても前夜から添い寝してあげよう。何なら君が此処に泊まっても構わないのだが、まだ君を口説き落とすには少々時間が掛かるだろうし、それに妻問いは男が足繁く通ってこそだからねぇ。君なんぞにやらせたら面倒臭がって直ぐに夜離(よが)れになってしまう」

「つ、妻問いだって!?誰が妻だよ!!ぼ、僕は男だぞ!!?」

関口の反論なぞ聞いては居ない風で中禅寺は関口の耳元に顔を近づけて囁いた。

「毎朝後朝だねぇ・・・ねぇ関口君?」

───若しかして僕は、とんでも無い男に魅入られてしまったのかも知れない。

悪鬼のような様相で笑う中禅寺の顔を見て、関口は気が遠くなった気がした。
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翌日、二人は一緒に宮中に戻ってきた。内裏では関口は時の人になっていた。帝寵愛の男として。関口を御簾の影から、衝立の陰から遠巻きに取り囲む皆の視線が痛い。

「うぅ・・・」

人に見られる緊張で汗が出てくる。ますます猫背になる。その横を平然と、凛とした空気を纏った陰陽師が歩いて居た。

「関口君、すっかり有名人だな」

ふふ、と口だけで京極堂が笑えば関口は恨めしそうに見上げた。昨日榎木津が内裏で暴れて猿は僕の物だと叫んだのが色々憶測と尾鰭を呼んで、<帝の寵愛を受ける男、関口>として内裏中に広まってしまったのだ。

「何だい?その恨めしそうな目は」

「───何でもない」

半分は君の所為だろうと言いたかったが下手な事を言えばやり込められるのが関の山と思い、流すことにした。それを見て京極堂は更に愉快そうに言う。

「ああ、なら関口君は僕の妻ですと此処で宣言しようか」

「はぁっ!?」

目を見開く。とんでもないこれ以上勘弁してくれと言う顔だ。

「原因は僕にも有るんだしねぇ、責任を取らないとな。宣言すればこの奇異の視線の半分は僕にも注がれるぜ?夫婦で分け合おうじゃないか」

京極堂は至極楽しそうだ。何が楽しいのかさっぱり分らないし冗談じゃないと関口は首を横に振った。

「これ以上勘弁しておくれよ───視線でどうにかなりそうだ、大体誰が夫婦なんだよ・・・」

苦しそうに溜息をつく関口に、陰陽師は確りと言った。

「夫婦か否かは些細な問題だよ関口君。便宜上分りやすく表現しただけの事だ。要するに君が僕から離れなければ良いのだよ。まあとりあえず、君が榎さんの物だという誤解も近い内に解いて置かねば成るまいな」

「京極堂───」

真顔でさらりと言い切る京極堂を半ば呆然と見ながら二の句が出ない関口であった。榎木津に報告に上がる為に清涼殿へ向かう二人の耳に、どたばたと聞きなれた足音が響いて来た。
 
「サルー!!!サルサル!!おおお無事だったか!!!」

榎木津が奇声を上げながらものすごい勢いで走ってきて関口の肩をがっしりと掴むとわさわさとゆすった。

「えぇえぇのさ──揺らさないでくだ───」

ぐらぐら揺すられて気持ちが悪くなってきた関口にはお構いなしで榎木津はぺしぺしと頭を叩きつつ

「全く、心配掛けおってこの下僕猿め!!お陰で僕は牛乳粥を鍋3杯も作ったのだぞ!!」

そういうと関口を引きずり、部屋に連れ込む。中には木場が居た。関口を認めるとおお、と声を上げる。

「よぉ!無事だったか先生」

相変わらず無骨だが、安心したような表情だ。

「お約束どおり、連れ戻しましたよ」

京極堂が引き続いて部屋に入る。木場は京極堂と目が合うと笑みを浮かべて頷いた。榎木津が関口を小脇に抱えて火鉢の上の鍋を指差す。其処には沸々と白い粥が湯気を上げていた。

「さあ猿!僕の作った牛乳粥だ!!食え!!」

「ぇ」

散々揺すられて酔い掛けて居た関口は粥を食えといきなり命令され、思考が停止する。固まる関口を

「おお、良し良し食わせてやるぞ!」

と榎木津はがばあ!と抱え込むとガッチリと足で関口を固定し、また餌付けの準備をし始めた。

「あの馬鹿は、関口が帰って来たら食べさせるんだって、ずーっと粥作ってたんだ。
お陰で煮詰まった粥は捨てるの勿体無いから俺や和寅が食わされる羽目になるわ、えれぇこった」

木場がうんざりと言う顔で言った。

「み、帝、ぼ、僕は───す、すみませ───」

「榎さんと呼びなさい。今回の件は其処の炭火焼きが悪いのだから君が謝る事は無いぞ。それよりお前は僕の第一下僕なんだからそんな貧相な顔はするな。ちゃんと食べなさい。今日は特別に君の為に僕が作ってやったんだからちゃんと食べなさい、良いね」

こっ酷く怒られると思っていた関口は、榎木津の言葉に驚きと安堵が入り混じった表情をした。それから目の前に匙で差し出された粥を見て、帝御自ら自分の為にずっと粥を作っていたのかと感動して恥ずかしげに嬉しそうな表情を見せた関口に、榎木津は大層満足したようだ。

「さあ、神の愛をたらふく受け取れッ」

嬉々として餌付けを開始する榎木津を横目に睨んでおいて、京極堂はいつもの定位置に座る。木場と榎木津に向かい、瞑目し

「この度は、私事にてご迷惑お掛けしました。真に申し訳御座いませぬ」

と両手を床に着き頭を下げて謝罪した。木場が目を丸くする。

「お、おい如何した、改めて畏まると怖いじゃねぇか」

「ふふん、開き直ったか。いい所まで行ったのか?」

榎木津は愉快気に目を細めて京極堂を見つつ言う。昨日から今朝に掛けての事を視ているのだろう。

「いい所?帝たる者下世話な言葉を使わないで頂きたい物ですね。それに開き直った訳では有りませんよ、自らと関口君に正直になっただけの事です」

「何の会話だ・・・」

木場だけが分かっていない。猫舌な関口は熱い粥をはふはふと、何とか冷ますので必死だった。と、京極堂は二人に高らかに宣言した。

「此処で正直に言っておきましょう。変に拗れるのはもう嫌ですから。僕は、関口君を妻にします。
僕の物ですからね、誰であろうと手を出したら容赦しませんよ」

「ブッ!!!!」

関口、粥を噴出してむせてげほげほと咳き込み目を白黒させ、木場も小さい目を見開いてあんぐりと口を開け顎が外れたような顔をした。

「馬鹿猿!こら!汚いだろう!!」

ごつん、と榎木津に頭を叩かれ関口はもう涙目だ。木場が哀れむような視線で見ている。

「ふん、やっぱり関君は思い出の小猿犬だったのだな。約束は果たしたぞ」

「ええ、僕の桔梗でした。彼自身はいまだ記憶を封印していますが・・・。関係有りません。大事なのは今ですから」

「あ、だが飼い主が僕だという事は譲らないからな。世話はお前に任せる」

というと、榎木津は関口を解放して京極堂のところへ押しやった。

「・・・っ」

「確かに」

京極堂の横へ座り、ちいさくなる。京極堂は満足げに関口を眺める。

「関は思い出したのか?」

榎木津が関口の記憶を視たのだろう、京極堂に訊ねた。

「何か視えましたか?昨日の様子では、錯乱した際に朧気に幾つかの記憶を垣間見た様子ですが、まだ具体的に思い出した訳ではなさそうですね」

「何だよ、関口の記憶って。話が見えねぇぞ、何かあんのか?」

木場が話が見えずに口を挟む。榎木津が関口の耳を引っ張りながら木場に言った。

「京極と関は子供の頃に出会ってたのさ。僕は東宮の時に京極堂の小猿犬を探す約束をしていたのだ。かわいい小猿は大きくなって草臥れ猿になって、お前に見つけられて京極と再会したが京極の事は綺麗さっぱり忘れてた。京極は京極で思い出の小猿と草臥れ猿との差に馴染めずに思い悩んでたって訳だ」

「ん?おめぇが記憶を視れば一発じゃネェのか?本人が忘れてても視えんだろうが」

「猿の記憶は、何故か以前の記憶が殆ど見えなかったのだ」

「記憶に関しては恐らく、無意識に封印する力が強かったのでしょう・・・彼も特殊な人間のようですし」

「なるほどなぁ・・・」

木場は納得したように腕を組んだ。

「・・・やっぱり僕は君と会っているのかい、子供の頃に」

話を聞いて、関口は窺うように京極の顔を見る。記憶が無い事が急に不安に思えてきたのだ。

「ああ、気にしないで良いよ。そんな物忘れたままで構わないさ。今の僕は今の君に惚れているのだから」

さらりと京極堂は言った。

「・・・うん・・って、いや、ええっ!?」

関口は少し安堵して頷くが、最後の言葉が引っ掛かって慌てて京極堂の顔を見た。その関口の顔に至近距離に顔を近づけ、京極堂は笑みを浮かべる。

「ほう、惚れられていると言う自覚はあるのだね?じゃあ早く僕を受け入れたまえよ」

「いや、その、ちがっ、そうじゃなくてっ、な、何言ってるんだよ君はっ!!」

関口は真っ赤になっておたおたしている。木場はそんな関口の姿を見てなんだか安心した。あの時の消え入りそうな関口の面影は無い。<戻って来た>のだと思った。そして、関口を挟んでやいのやいのと騒いでいる二人を見る。そして、この<奇異なる二人だから>どんな状況でも関口を引き戻す事が出来るのだと納得した。其れがある種の現実逃避である事は薄っすらと自覚はあったが。

「惚気猿!」

榎木津が関口を指して叫ぶ。

「の、惚気てませんっ!」

「惚気てんのは京極だろ」

木場が助け舟を出す。京極堂は笑う。

「帝が妬いてるんでしょうよ」

「黙れ炭火焼!猿はこっちこい!!」

「さっきそっち行けって言ったばかりじゃないですかぁ!」

「そんな事忘れた!!神に楯突く気か猿めっ!」

関口の頭をぽかり、と叩いて引きずり戻す。

「牛乳粥がまだ残っているぞ、食わせてやろう!」

「えええっ、またですかぁー・・・」

がっくりとうなだれる関口を見て、おかしそうに表情を緩める京極堂。その様子を見て木場は、ああ、やはりこいつも人間なんだなあと思った。関口の存在が、この闇を纏った氷のような男を柔らかく溶かしている。ならば、きっと二人は会うべくして会い、惹かれあう存在なんだろうと納得したのである。

そして、この空間が三人だった頃より馴染んでいることに気づき、今まで誰も入り込めなかったこの閉鎖空間にいとも容易く入り込んでしまった関口という存在に、不思議な縁を感じるのであった。
彼らが出会うきっかけを作り、この空間を作り上げるきっかけを作ったのは自分。不思議な縁に自分も加わっていたその事に、なんだか内心自慢げな感じを覚え、思わず笑みが浮かぶのだった。

-十話・了-
-続-

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