平安朝百鬼夜行

平安調京極百鬼夜行第十一話<後朝>-

平安調京極百鬼夜行第十一話<後朝>

関口は牛車に揺られ内裏を出た。何だかんだと(主に帝が)大騒ぎしたが、結局の所、無事に生きて帰って来た事を皆、喜んでくれていた──。と、思う。

『───俺がこいつを見つけたんだからな?』

そういって木場の旦那は嬉しそうに笑った。気分よさげにまた絵を教えてくれと言ったので、勿論だよと言ったら、榎さんと京極堂が良く分らない勢いで木場の旦那に食い付いて大騒ぎになり、和寅が柱の陰で頭を抱えていた。同情に耐えない───。って言ったら怒られそうだな。

そんな事を思い出して苦笑しつつ、関口は牛車の行き先を何時もと違う方向へ牛飼い童に指示を出した。

京極堂はまだ職務があるから陰陽寮に居るし、木場の旦那は屋敷へ帰った。
帝はあのまままだ昼寝しているだろう。其々仕事は一応終わった時刻だが、日没まではまだ随分有る。
朱雀門を出た所で関口は用を思い出し、そのまま家に戻らず鄙びた屋敷へやって来た。
其処は、知る人ぞ知る都一の笛師と京極堂が言う伊佐間の屋敷だった。

「御免下さい、関口です、そのぉ、先日の笛を───」

くぐもった声で声を掛けると、ややあって、中から鰌髭を生やした枯れ木のような男が出てきた。

「いらっしゃい関口さん、丁度今から其方へ届けに行こうと思って居たんだよ」

「そんな、内裏からなら君の家は近いし僕が来た方が早いと思って、その」

「うん、ありがとう、助かったよ。折角来たのだから麦湯でも」

と、伊佐間は茵を敷くと関口に座るように勧め、奥へ入っていった。関口は躊躇したものの、伊佐間の屋敷に所狭しと並べられている楽器類が気になって結局上がりこんだ。

「おじゃまするよ」

「うん。はい麦湯」

「頂きます」

関口は伊佐間に仕上げの為に預けていた篠笛を引き取りにきたのだった。先の庚申の御遊の為に取り合えず間に合わせで仕立てた笛は、内部の塗装がまだ未完成だった事と鬼の事件で傷が付いたりした為、事件の後再度伊佐間屋に持ち込み仕上げて貰っていたのだ。

「君の役に立ててる様で良かったよ」

「え?」

伊佐間は関口が麦湯を飲んで人心地ついたのを見て、笛を箱から取り出して丁寧に再度塗りを確かめながら言った。

「うん、この笛がね。君の笛の音が鬼を感動させたって自慢げに話してくれた」

「えっ、お、おい、こいつはそんな事話したのかい?」

関口は真っ赤になって目のやり場に困ったように視線を床に彷徨わせた。伊佐間は別段気にも留めない様子で、うん、と答えた。それから再び笛を箱に収めると、関口に差し出した。

「おまちどうさま。これで完成だよ。良い仕事をさせてもらったって京極堂にもお礼を言っておいてくれないかな。てっきり二人揃って来ると思ってたんだけどね」

「えぇ、どうしてだい。京極堂が来た方が良かったのかい?」

関口は顔を上げて不服そうに伊佐間を見た。伊佐間は首を振って

「うぅん。そうじゃないんだ。君たちいつも一緒だから今日も一緒に来るのかと思ってたんだよ」

「い、いつも一緒じゃないよ、皆して京極堂が僕の保護者みたいに思ってるんだな」

「でも、京極堂はいつも君の事を心配しているから」

「全くもって余計なお世話だよ。僕の事をどう話してるんだ、あいつ───」

「ふらふらと彼岸に行ってしまおうとするから目が離せないって」

関口は膨れて口を尖らせた。伊佐間はきょとんと関口を見ると、少し考えて言った。

「ねえ。京極堂って、うぅん、何ていうか───君の事凄く好きなんだと思う」

「ぼ、僕らはしゅ、衆道じゃないぞ!」

関口はつい先日京極堂に告白された事を思い出して真っ赤になって否定した。幾ら男気が無いとよく言われるとは言え、自分には男だという自覚は確りある。そもそも貴族の間で男色が流行っているという話しも聞くが、少なくとも自分はそんな趣味は無い。京極堂にしても、衆道や稚児趣味は無いと言い切っていた───はずだ。

「うぅん、そうじゃなくて何ていうか───君の事が凄く支えなんだと思う」

「支え──?」

「うん」

「僕が、京極堂の支え?」

「うん」

関口は思いもよらない返答に困惑した。自分のような者があの男の支えになって居ると言うのだろうか。

「君の事を話すときの京極堂はね、音が鳴って居るんだ」

「音が?」

「うん。人は色んな音を持っているんだ。それは普段は人には聞こえないけれど、楽器を奏でるとその人の音が楽器に共鳴して回りにも聞こえる。僕はその人の持つ音が実際に聞こえるように楽器を作っているんだ」

「あ、それ、この前京極堂に聞いたよ、うつほ、って言うんだろ?」

「うん、そう。君は特に共鳴しやすいから、この笛は君の元に来るべくして来たんだと思う。でね、京極堂は陰陽師だからいつも他人には音を読ませないようにしているんだけど、君の事を話すときだけ、音が聞こえるんだよ」

「ど、どうして僕の時だけ」

「うぅん───多分、その時だけは陰陽師じゃないんじゃないかな」

伊佐間は碗の麦湯を飲み干した。

「───」

───中禅寺。秋彦───

彼の本当の名。二人で居る時だけはそう呼んでくれと言われているその名は、陰陽師ではない素の男の存在だった。術者が真名を相手に許すという事は、それだけ自分を信頼している証だ。京極堂は自分が京極堂を薄っすらと怖れている事を知って居る。知っていてなお、側に居てくれと言った。護りたいのだと言った。

「───伊佐間君。僕は、彼の側にいて良いのかなあ」

関口の問いに、伊佐間はうぅん、と少し考えて、そして言った。

「君が居たかったら、居て良いと思うよ」

笛を受け取り、伊佐間の屋敷を退出して関口は夕刻、自分の屋敷に戻って来た。
結局、伊佐間の返事に関口は自分にも分らないのだと答えて溜息をつくしかなかった。伊佐間はそんな関口に対して、「関口くん───今すぐ答を出さなくても、良いんじゃないの?」とのんびりと答えた。関口はそののんびりとした口調と様子に安堵して、「そうかな、」と頬を人差し指で掻いて、照れ隠しのように苦笑した。

家では鳥口が出迎え、そして挿絵の注文を受けたことと、後で自分の描いた作品を見てくれと飼い主が帰宅して喜ぶ犬のように明るい調子で話しかける。その様子を弟を見る気分で関口は微笑ましく受け答えた。

鳥口は関口にとっては親戚筋の子に当たる。歳も6歳か7歳は下だったと思う。関口の家に転がり込んでまだ2年ほどだが、生活力は関口なんかよりはるかにあるだろう。使用人への指示から、日常の世話まで色々遣ってくれる。都に住むようになって、気を使わずに会話できるのは鳥口くらいだった。

「先生、こちらにおいておきますねー」

麦湯を出しておいてくれたようだ。狩衣に着替え、漸く人心地付く。

「ああ、ありがとう」

「あと、これが今回の注文ですよ!帝の覚えがめでたいって言うんで、最近ちょこちょこと大口のお仕事が入って来るようになりましたねぇ!流石僕が先生と認めた人ですよ!」

自分の事のように興奮する鳥口だが、肝心の関口はきょとんとした様子で

「ああ、そうなのかい?」

と麦湯をすすりつつ答えた。

「うへぇ!気づいてなかったんですかッ!?掛け軸の絵とか描いてくれって来てるじゃないですかぁ!」

「・・・・あぁ、あれ掛け軸だったんだ。随分長い紙に描くんだなと思ってた」

「うっへぇ!知らずに描いてたんですか!?さすが先生・・・!でもあれ先方は随分気に入って行かれましたよぅ」

鳥口は驚いたのか笑っているのか感心しているのか良く分からない様子でうへぇを連発していた。

「で、鳥口君の絵は?」

「あ、持ってきます!」ばたばたと走っていく。

それを関口は柔らかい笑顔で見ている。ややあって、鳥口が絵を持ってきた。庭の彼岸花のようだ。
それを見つつ、関口は上手いじゃないか、と答えた。

「いえ、先生みたいななんかこう、生きてるって感じのじゃないですよ。どうやったら描けるんですか?教えてくださいよ〜〜」

「うーん、生きてる、かぁ・・・。良く観察して、例えばこの、彼岸花に重なると言うか・・・」

「うへぇ、彼岸花になりきるんですか!なんか怖いですよ!」

「あ、まあ彼岸花じゃなくても良いんだけど・・・なんていうかな、その風景に入り込むっていうか」

「なるほど、さすが先生だぁ!僕なんかに出来ますかね・・・!」

鳥口はしきりに感動している。

「誰にでも出来る事さ、こんなことは」

常に現実から逃げている僕はそれが人より少し上手いだけだ。関口は自嘲する様に微笑んだ。

「頑張ります!あ、お夕飯は、鴨肉と平茸、それに先生の好きな笹栗ですよ!」

「へぇ、それはすごいねぇ。良く手に入ったね」

鴨肉なんて久し振りだなぁ、平茸かぁ、これも美味しいんだよね、笹栗大好きなんだよね・・・と頬がほころびかけた。

「中禅寺様からの贈り物ですよ、一寸驚いちゃいました」

「ブッ!」

鳥口の言葉に関口は麦湯を吹き出してむせた。

「うへぇ!如何したんですかっ先生っ!?」

鳥口に背中を擦られたり叩かれたりしつつ耳まで真っ赤になりながら、

「いや、そ、そうかぁ、中禅寺がね・・・はは・・・・」

と半分現実逃避しながら笑うしかなかった。

「中禅寺って言えば確か陰陽先生ですよね?急にこんな贈り物だなんて一体、如何なさったんですかねぇ!あ、先日の鬼退治への協力のお礼とか?先生大活躍だったってお客さんが皆褒めるんで僕も鼻が高いっすよ!」

「・・・そ、そうだねぇ」

鳥口の言葉を耳半分で聞きながら、関口は残った麦湯を飲み干した。贈り物・・・。つまり・・・。関口は真っ赤になったまま、自分を妻にしたいと言っていた事を思い出す。
中禅寺のそれは女性への求愛行動だ。好意を持たれる事自体は嬉しいと思う。でも、同性からの求愛に如何答えたらいいのか・・・。今まで男に求愛された事が無かった訳ではない。自分はそういう嗜好の男性にどうも好かれる性質なのである。・・・でも。受け入れるなんて出来なかった。私は男だ。それは死ぬまで絶対に不変であり、唯一変わらない自分自身なのだ。だから、男色を好む都の貴族が絵を買う代わりに一夜を共にと言っても逃げてきた。例え受け入れたとしてもその場限りの相手にとっては単なる性欲の排泄行為だ。私はそんな事には耐えられない。

───男は、獲物を屠る為にはどんな事でもするのだ。中禅寺の求愛もそういう物だろう。彼には悪いがそう思わなければ、きっと僕はまた傷つく。きっと、過保護が高じた一時的な気の迷いだ。
───中禅寺は良い男だ。自分には勿体無いほどの才覚と人格を兼ね備えている。彼には学ぶ所も多いし、僕自身、彼の事は好きだ。義兄弟とは行かぬまでも────

『───彼は<お前にとってこの男は何だ>と聞いて来たのでね、<僕の蘭だ>と言ったのさ』

───金蘭の交わり。心を同じくする友との固い絆。君がそう言ってくれた事だけで、僕は満足なんだ。だから僕は、失いたくないんだ、中禅寺。どうしたら、君にそう伝えられるのだろうか。

関口は、そんな事を真面目に考えている自分に苦笑した。

 
その晩。鴨肉と平茸、それに笹栗の載ったいつもより豪勢な夕食を食べ。関口はうとうとしていた。突然、バタバタと走ってくる音。

「せ、先生!陰陽先生がお見えになりましたよ!!」

鳥口の声に、関口は飛び跳ねるように起きた。

「ほ、ホントに来たのかッ!?」

関口にしては大急ぎで玄関へ向かう。果たして、狩衣姿の陰陽師が其処にいた。

「やあ関口君。来たよ」

「きょ、京極堂」

「なんだい、客人をいつまで玄関先に立たせておくんだい?失礼だな」

「うわっ、ど、どうぞ・・・あがって」

しどろもどろになりつつ招き入れる。

「ではお邪魔するよ」

当たり前のように上がりこむ中禅寺。座敷に鳥口が用意した茵(しとね)に座る。
関口は膳を挟んで正面に正座し、俯きつつ言った。

「あ、あの、先ほどは・・・その、大変結構なものをありがとうございました・・・」

「ああ、お気に召したかい?」

「ええ、とても・・・」

「関口君」

「は、はい」

「君は食事の習慣を身につけた方がいい」

「え」

「君は食べないときは一週間近くも何も食べないそうじゃないか・・・だからそんなに貧相なんだ」

「うぅ・・・で、でも」

「確り食べ給え。食が細いのは分かっているが、其れでもあれでは心配すぎる」

あれ、と言うのは先日の塞ぎこんでいた時の状態なのだろう。

「今後は僕も君の食生活には目を掛けておくよ・・・その位の甲斐性はある」

つまりこの男は自分を養う覚悟は有ると言っているのか。

「・・・・きょ、京極堂・・・」

うろたえつつ顔を上げる。京極堂は静かな表情をしている。

「内裏以外では中禅寺で良い」

「中禅寺・・・僕は・・・」

「分かってる。僕も男だ。君の考えてる事位理解しているさ。だが言って置く。僕はその辺の男色趣味貴族ではない。僕が君から得たいと思っている物は───、勿論君の身体が要らぬとは言わない。だがそれよりも君の心が欲しいのだ。君が僕を求めてくれなければ、例え君に無理強いした所で───何も得られない。ただ、失うだけだ」

苦しげに自分に訴える中禅寺の切ない思いが伝わってくる。彼の声音に乗って切ない波が押し寄せる。胸が痛む。伊佐間の言う、「音」とはこの事なのか。

「・・・だが、せめて今は────添い寝くらいは、許してくれよ」

何時もは絶対見られないこの男の懇願めいた響きに、関口は庇護欲を思わず擽られ、困ったように苦笑すると溜息をつきつつ

「しょうがないなあ、そ、添い寝だけだぞ?ま、まあ例の三国志の故事に倣って、し、親睦を深める為にって奴だよ?」

「おや、流石は先生だ。ここでその故事を出してくるとはね。まあ、君がそれを<覚えた場所>はちょっと気に入らないが、それで君が同床を許してくれるなら今は素直に喜ぼう」

と言った。関口の緊張がやや解れた顔を見て中禅寺は関口に手を伸ばしそっと頬に手をやる。関口は赤くなって目を俯き加減に反らした。そっとこちらへ上体を伸ばし中禅寺の顔が近づく、と

「先生!お酒お持ちしましたよ!」

盆を持った鳥口が襖御簾を上げて覗き込んだ。硬直する、間。

「あ、あ、あああありがとう鳥口君!」

慌てて関口が席を立ち、盆を受け取りに来た。中禅寺はすっといつもの姿勢に戻り、麦湯を飲んでいる。

「・・・開ける前に声位掛け給え」

刺すような声音で中禅寺が言った。声が怖い。部屋の空気が一気に凍る。

「う、うへぇ!失礼しましたッ!ど、どうぞごゆっくりぃいいッ!!」

真っ青になって関口に盆を渡すと、バタバタと走っていく。

「あ、あ、あの鳥口君・・・っっ」

走り去ったのをなすすべもなく見送って、はぁぁ、と肩を落とす。
盆を膳に乗せると、はぁ、と溜息。

「そう落ち込む事でもないだろう、未遂ではあったし、別に見られたからと言って如何という事でもないじゃないか。
それに遅かれ早かれ僕らの関係は分かるはずだろうしね」

「中禅寺・・・君は、どうして」

関口の声が震える。

「言っただろう?否定して君を傷付けるより全てを受け入れて君を護る」

その声は迷いの無い、力強い声だった。膳を横にどかし。中禅寺は膝で前に進むと関口を引き寄せ抱きしめた。
抱き締められ、動きを封じられて関口は本能的に身構え身体を強張らせる。それを感じ取った中禅寺は小さく溜息をついて関口の耳に片手をやり、耳介を軽く揉みながら言った。

「そんなに怯えないでくれないか」

「───だ、だって」

「君に拒絶されるのが───僕は一番辛いんだ」

「───っ」

胸が締め付けられる。関口は思わず眉を顰めた。昔から自分を苦しめる寂しい痛み。寂しさと哀しさとが入り混じり心を苛む関口にとって常に付き纏う馴染んだ痛みだ。だが、今の痛みは自分のものでは無い。これは中禅寺の痛みだ。

───この、痛みは──僕の所為なのか、中禅寺?

彼は榎木津や木場とは違う強さを持った人間だ。闇を視て妖異と対峙し、呪いを操り解く。月星の運行を見定め先を視る陰陽師。けれど、その強さは時として人に怖れられる哀しさを背負う。一見には彼の強面の面相やその物言いの強さでそうは見えないが、人々の恐れを詰まらぬ物と蔑み捻じ伏せてしまうほど彼は人を貶められないのだ。彼もまた人に理解されぬ寂しさを背負っているのだろうか。鬼をも調伏する強い男がこんな箸にも棒にも掛からぬ何の取り得も無い自分に縋っているのか。中禅寺は関口の首筋に顔を埋めて黙っている。その様子に関口は何故だか迷子の子供に縋られているような感覚を覚えた。関口が身動ぎをすると声にならない息だけの言葉で関口の名を呟いた。

「───巽」

───中禅寺は、ずっと僕を捜していたと榎木津が言っていた。長い間行方知れずの僕を捜し出す事が東宮の一人で政権闘争の渦中にあった榎木津に中禅寺が味方する条件だったと言っていた。何故其処まで僕なんかに拘るのか、僕には理解できない。それに、当の僕は彼にとって一番大事なその頃の記憶をすっかり無くし、幼い頃の愛らしさと言うものも最早面影すらないただの冴え無い男だ。それなのに中禅寺はそれでも構わぬとこうして僕を抱き締める。

そう思うと、関口は無碍に彼を拒絶など出来なかった。こうして彼の衣に焚き染められた彼の香に包まれていると安堵さえ感じてしまう自分がいる。これは一体どういう事なのだろうか。

「────中禅寺」

そっと抱きしめ返す。中禅寺はその感触を感じたのか、安堵したように息を吐いた。それから体を少しだけ離し、耳を弄っていた手を関口の顎にやり、くい、と持ち上げる。何時もの刺々しい視線ではなく、切なげな優しい視線だった。

───ああ、こんな顔するんだ

関口がそう思い、滅多に見られぬ優しげな面に見惚れていると、中禅寺はそっと顔を近づけ口付けた。反射的に逃げようと身体を逸らすが、そのまま押し倒される形になり関口は中禅寺に組み敷かれる形に成った。どうしよう、と焦るも口腔内を中禅寺の舌が進入し、貪る様に犯される粘膜から伝わる熱と感触、そして口を塞がれ焦るうちに酸欠になって来たのか次第に関口もぼうっとなる。そうなると、ただ犯される感触と快楽だけを追い求め始めた。中禅寺の香りと、直に舌を絡める事で伝わって来る彼の自分に対する想いに酔い始める。

「ん・・・ふ・・・」

漏れる吐息が甘いものに変わり関口が抱きしめる腕に力が篭る。中禅寺は、関口が感じている事に気づくと、一層強く舌を吸った。息が乱れ、唾液があふれ出す。一頻り貪り中禅寺は漸く唇をゆっくりと離す。形振り構わぬ口吸いに二人の間を銀色の糸が引いた。中禅寺は自分の欲情の強さに内心苦笑しつつも関口がどんな表情をしているのか見たかった。

「は・・・ぁ・・・」

関口は頬を赤く染め、うっとりとした表情で中禅寺を見ていた。半開きの唇、薄っすらと開けられた長い睫に縁取られた瞼から覗く黒目がちの瞳は涙を湛えてぼうっと焦点を合わせていない。それが艶かしく中禅寺は体の芯が疼くのを感じた。

「巽・・・」

耳元で囁く。

「ぅん・・・」

弱々しげに返事を返す関口は、白い肌が薄紅色に染まり汗と共に関口自身の焚き染めた香がほんのりと香り、その無意識の媚態は中禅寺の情欲を刺激した。思わずとんぼ(襟の止め具)を外すと狩衣をはだけ、単の襟を緩めると鎖骨から首筋を舐めあげ口付けて吸った。

「!!ひゃ、あっ!?────ちゅ、中禅寺っ!!?嫌だッ!!」

その異質な感触にはっと我に返り、狩衣が肌蹴られている事に気が付き硬直する関口。中禅寺も我に返り体を離した。中禅寺からの力が無くなった関口は跳ね上がるように起き上がり、後方へずり下がると衣を引き寄せて胸元を隠すと案の定、怯えたような、驚いたような目を見開いて中禅寺を見た。

───僕とした事がこうも簡単に誘惑に乗るとは。

関口の怯えた視線に中禅寺は一瞬でも肉欲に負けた己を腹立たしく詰った。関口が誘惑したわけでは無い。自分の欲望を押え切れなかっただけだ。自分の失態に歯噛みしながらもこのままでは関口が不安定になりかねない。

「───有難う、関口君」

「え」

貞操の危機は脱したが、彼の要求を突っぱねた事で激怒されるかと怯えていた関口は、笑顔で礼を言う中禅寺に虚を突かれて目を丸くした。

「初夜で君から口吸いを許して貰えるとは思わなかったからねぇ。本来は文から始めるのが筋なんだろうけど、まあ今更僕らに懸想文から、も有るまい?」

「え、う」

「勿論男がこれぞと想う相手の家に上がり込む以上はそれなりに下心もあるさ、僕だって男だからねぇ。好きな相手と一夜を過ごそうと言うのだから下心が無い男など居ないだろう?そうじゃないかね関口君?」

通う以上は男は共寝を期待するのは当たり前の事だ。関口にもそんな事は良く分っているから、問いかけられて関口は真っ赤になって失語した。

「君から添い寝の許しを引き出しただけでも成果だと思ったが、床寝の前に口吸い出来るとは思わなかったよ。僕はそれなりに君に愛されていると期待しても良いのだろうかね、関口君」

「ちゅ、中禅寺!そ、その、お、怒ってないのか?ぼ、僕みたいな奴に、こ、拒まれるなんて、そ、その、ご、ごめんなさ・・・」

「何言ってるんだ君は。それならば謝るべきは僕の方だろうが。僕は君を君の同意なく手篭めにしようとしたのだ。君との約束は添い寝だったはずだろ。それに、自分で僕みたいな奴と言うのは止め給え。君は自分を卑下して楽しいかもしれないが、それはそんな奴に惚れているこの僕を卑下しているのと同じだぞ」

「そ、そんなつもりじゃ・・・!」

関口の言を遮って、中禅寺は微笑んで言った。

「関口君。まだ夜は長いよ、ゆっくりと語り合おうじゃないか。僕は君の事をもっと知りたいし、僕の事ももっと知って貰いたいのだ。愛しい人と共寝しながらゆるりと夜更けまで四方山話すのが僕は好きなのだよ。ふふ、四方山じゃあ情緒が無いな。この場合は睦言と言うべきか」

中禅寺には、彼の言葉には過去の経験が混じっているのだと分っていた。拒んだ事で激怒され、貶められ、傷付けられて来たのだろう。そうやって居る内に、彼は自分自身を貶めて相手を持ち上げ、過度の暴力を受け流す術を覚えたのだ。

「・・・・い、いと・・・!?むつ・・・!」

関口は愛しい人と言われて更に真っ赤になり、恥かしさの余り俯いた。それを見て中禅寺は喉で笑った。どうやら、先程の恐怖心は拭えたようだ。だが、関口を安定させる為に会話を平常に戻してしまうのも惜しい。自分は関口を嫁に取る為にこうして通って来たのだと中禅寺は思っていた。ここでただの友人の会話に戻してしまっては何時まで経っても進展せぬ。流されやすい関口を上手く手懐けながら自分と目合う(まぐわう)事の恐怖心を少しづつ剥がしてやらねば成らぬ。

───人の心を操るのは簡単だ。だが、惚れた相手を真の意味で手に入れるのは難攻不落の城を落とすより難しい事よ。

「はあ、この分だと僕の忍耐も風前の灯だな」

関口の乱れた髪を耳に掛けてやりながら、中禅寺はおどける様に呟いて、苦笑した。元服以降、成人貴族として女性と目合った事は幾度ある。だが女と閨を共にした時、これほど睦言を繰り出した事などは無い。また以前、公達達から懸想文の代筆を頼まれた時には歯が浮く様な文言をどれほど並べ連ねた事だろう。馬鹿馬鹿しいと鼻で嗤ったものだ。自分にはこんな陳腐な文言は吐けぬと思っていた。だが、今の自分は何だ。あの時に散々歯が浮くと笑った言葉をこの冴え無い男相手に次々と口に出しているではないか。

「君のお陰で僕はきっと一晩眠れそうに無いのだが、どうしたら良いかな関口君」

「し、ッ、し、知るもんかそんな事っ!」

関口は中禅寺を突き放して後ろに下がり、横にずらしていた膳を元に戻して二人の間に境界線を作った。

「おや、結界を張られてしまったか。これでは手が出せないナァ」

と残念そうな顔をする中禅寺は、一先ず此処までかと心の中で呟いて結界となった膳に盛られたつまみの漬物を口にした。

「ちゅ、中禅寺、頼むから、こ、こんな事は」

「少し性急過ぎたかな。成るべく君に合わせようとは思っているのだが、君に合わせてばかりだと僕の寿命が尽きてしまう気がするからねぇ。君の鈍さは僕でも如何ともし難いな。君の描く絵は繊細なのにねぇ。絵と言えば、最近は唐の文様の流行りは花喰鳥(はなくいどり)文様らしいね。元々は波斯から伝わって来たそうだが───」

神経が磨り減って来ている関口を慮り話題を変えるべく中禅寺は関口の絵の題材に付いて色々語りだした。異国の話や絵の具の産地の話まで交えて関口の興味を引き出して行く。関口も何だかんだと言いながらも進む内に警戒心を解いて中禅寺の膨大な知識に感心するのであった。数刻が過ぎ話も一段落した頃、ぱたぱたと廊下で足音がして鳥口が今度は御簾を上げず衝立越しに、声を掛けた。

「先生、夜も更けて御座います。湯の桶と床の方は用意しましたんで、適当に休んで下さい」

「あ、ああ、ありがとう」

「では、僕はこれで。おやすみなさい、先生、師匠」

そういうと、軽快な足音と共に去っていく。鳥口も休むようだ。
 
「休もうか、巽」

「そ、そうだね・・・客間へ案内するよ」

立ち上がり、膳を持って関口は立ち上がる。「置いておけば使用人が片付けるなりするだろうに」と言えば、「でもまだ残ってるし、どうせ君の事だからまだ起きてるだろ?本でも読みながら食べてしまえよ」と口を尖らせた。その様子を見て中禅寺は微笑む。

「なに?」

不思議そうに聞く関口に、中禅寺は後で教えてあげるよ、と腰を上げ、御簾を開けてやった。
燭台を中禅寺が持ち、膳を持つ関口の後に続く。猫背気味なのが少々難点だと思いつつも、時折見える項に情を覚えた。

「ここだよ」

と関口が立ち止まり、客間の御簾を開けると、「うぅ、」と唸って関口は固まった。

「?どうした、関口君。そんな所で突っ立ってられちゃあ中に入れないじゃないか」

中禅寺が関口の横から部屋に入り、灯りを翳すと褥が二つ並んで敷いてあった。それもぴったり並べて。

「ちょ、鳥口君・・・ッ!?」

「ぷ、くくく・・・・っ、なかなか気が利くじゃないか鳥口君は」

中禅寺は笑いながら燭台を布団の枕元に立てた。笑い事ではないのが関口の方だった。

「ちょ、ま、もしかして・・・ッ!と、鳥口君・・・ま、まさか、こ、これ、一緒に寝ろって事かい!?」

「何を今更。君は通ってきた男を一人で寝かせるつもりだったのかい?なんだい、鳥口君の方が若いのに良く分かってるじゃないか。それに、さっき添い寝してくれると言う約束をしたばかりじゃないか、もう忘れたのかい?情の無い奴だなあ」

中禅寺が笑いを噛み殺しつつ言えば関口は口を尖らせてむぅ、と睨む。しかし、あの場面を見られた以上、そういう事だと思われても仕方ない。がっくりと肩をおろし、部屋に入った。中禅寺は関口が部屋に入ったのを見て、御簾を降ろした。

枕元に着替えの小袖までちゃんと並べておいてある。膳を枕元において猫背のまま放心している関口を見て

「まさにお膳立ては完璧だねぇ。ああそうさっき笑ったのは君が膳を運ぶ姿がもう既に君が我が妻みたいに思えてね」

と中禅寺は可笑しそうに笑う。笑い事じゃない、とますます脱力する関口。そんな事は意に介さず中禅寺はさっさと狩衣を脱ぐと、鳥口の用意した湯で体を拭いた。

「ああ、さっぱりするなあ。ほら、君も拭き給えよ」

中禅寺が声を掛ければちらちらとこちらの様子を窺いながら関口はもじもじと所在無さ気に座っていた。

「えっ」

「えじゃないよ、鳥口君が折角用意してくれたんだから体を拭きたまえ」

「あ、う、うん・・・」

「なぁ君、そんないきなり取って食いやしないからそう怯えないでくれ給えよ。物事には順序って物がある。幾ら初夜とは言え部屋に入るなり襲おうとか思って居ないぜ。あぁ、ついでにその小袖を持ってきてくれ」

全く、と言うように溜息つきつつ言って、布団の枕元に並べておいてある小袖を指差す。

「ああ、う、うん」

指を差す所作にすらびくりと面白いように体が跳ねる関口。警戒心丸出しじゃないか、と中禅寺は苦笑する。まあ、その警戒心はあながち外れではないから解けと言うのも無体だなとは思った。関口は中禅寺の指示に飛び上がるようにして寝巻きを抱えると、態々遠回りをして中禅寺の所へ持っていき、恐る恐る手渡した。目線を合わせようとせず、俯いて怒られた子供の様になっている。

「ほら、君も。僕は向こうに行ってるから」

中禅寺はそう言うと布団のほうへ歩きながら単を羽織る。それを見送ると、関口も漸く着物を脱ぎ始める。明かりと言っても暗いから、少し離れればはっきり見えるわけではない。
関口はそれを確信して、ほう、と溜息をつくと湯を使い始める。中禅寺は、ちら、と影が動く様子を見ると明かりの方へ目をやり、帯を結ぶ。褥に横になり、再び影の動く様子を見ていた。
影とはいえ、その輪郭は闇に目が慣れれば分かる。関口の痩せた体の輪郭は、同じ男としても哀れさを感じさせる程だ。湯の跳ねる音を耳にしながら、関口の細い影が動く様を見つめる。
やがて、体を拭き終わった関口が着物を羽織るのを見て、中禅寺は天井へ視線を移した。

やがて、関口も褥へと戻って来た。狩衣とは違い、単は薄く華奢な線があらわになっている。
猫背気味で所在なさげにおどおどと座る様は貧相で頼りない。逢瀬を恥ずかしがっているのなら兎も角、高々添い寝の為に自分に怯えて居るのだと思うと、受け入れて貰えぬ苛立ちと共に罪悪感が沸いてくる。だが此処で手を引くわけには行かない。着実に既成事実を重ねねば成らぬ。関口との婚姻を為す為にこの数日間は宿直や泊り込みの依頼を入れさせなかったのだ。その為の準備も整えた。

「背筋を伸ばしたまえよ」

やれやれ、という顔で注意すれば、関口はおどおどと顔を上げた。

「う、うん・・・」

「ほら、おいで」

片手を差し出し招く。手が届かない位置に座っているのは態とだろう。

「あ、あの僕は、その、こ、此処で良いよ」

「何を言っているのだ全く。いつまでも其処に仏像みたいに座っている心算かい?一晩中其処に幽霊みたいに座られてちゃ流石に気味悪くて僕も落ち着かないじゃないか。せめて横になり給えよ」

片眉を吊り上げて睨む。関口はひっ、と背筋を伸ばした。それから、もごもごと何か言いつつ、褥に横になる。上掛け端のほうに引っ張り、縮こまるように、中禅寺とは距離を取り小さくなって背を向ける。

「お、おやすみ・・・」

「・・・・」

その様子をじっと見ていた中禅寺ははぁー、と盛大に呆れたように溜息をつき、すぐさま行動を起こした。

「巽」

「な、なに」

関口は首だけ焦ったように振り向く。中禅寺は関口の肩をがっと掴むとこちらへ転がし、覆いかぶさる。

「ひっ!」

「どうして君はこう、雰囲気を察しないのかねぇ。君には添い寝の何たるかから教えないと駄目かい?」

そういうと首筋に顔を埋めた。関口の香りを吸い込みながら、中禅寺は首筋に口付けた。普通に横に来てくれればこんな真似をする心算は無かった。何度かやったように抱き締めて眠る心算だった。しかし、こうもあからさまにされると可愛さ余って苛立ちが勝った。本気で通う心算で居る相手との初夜で枕を異にする等有り得ない。

「やっ、あっ!?やめっ」

関口は慌てて両手で抵抗しようと中禅寺の肩を押し返す。しかし、舌で首筋を舐めあげられるとひゃあぁ・・と声を上げて力が緩んだ。その隙に中禅寺に両手を押さえつけられ、両足を膝で割られ股を開いたところに割り込まれた。逃げられない状況に追い込まれ、関口は涙目になりぎゅうと目を瞑って顔を背けた。中禅寺はそれを少し哀しげに見つめる。

「無理強いはしたく無いんだが、君に受け入れてもらうにはどうしたらいいか時々分からなくなるよ、どうしたら良いのか教えてくれないか、関口君」

「そ、そんな、だ、だって」

「僕がどうして此処に来ているのか、君にも分かっているだろう?まさか今更知らないとは言わせないぞ」

「そ、それは」

「僕と君は友達なんかじゃあない。ずっとそう言っているだろう?友達にはこんな真似はしない。誰よりも君を知る者で在りたいのだ。僕は君をこの上なく好いているのだよ」

「ちゅ、中禅寺・・・」

黒目がちの潤んだ瞳が灯りに照らされ中禅寺を映す。関口の瞳は困惑と怯えと、そして憐れむ様な色を湛えていた。

「僕は君を妻にしたいのだ。君を僕のものにしたい。ずっと、そう、───思っていたのだ」

「───」

「あの日より君だけを想って来た。もし君と再会出来なければ、僕は君の生死に関わらず今も独り君を想っていただろう。だが、今は違う。君は生きて僕の前に居る。例え君にあの頃の記憶が無かろうと、君は君だ。今度こそ、僕は君を手放さない。だが、その為には友人では駄目だ。僕はもっと深い絆が欲しいのだ」

手を強く握り、指を絡めれば関口ははぁ、と息を漏らした。瞳がぼんやりとし、抵抗する力が弱まった。関口は相手と同調する性質を持っている。特に触れ合った相手にはそれが顕著になるのだ。自分の想いが流れ込み、翻弄されているのだろうか。もっと、想いを伝えたい。首筋から顎へ、唇でなぞり、関口の唇を軽く吸って耳を軽く噛むと、んっ・・・と微かに声が漏れ、ひくりと反応を返す。関口の髪の香りが鼻腔を擽り、しっとりと湿った皮膚(はだふ)が中禅寺の芯を刺激する。同調と怯えの間に翻弄されながら愛撫を堪えている関口の息遣いが男としての征服欲に火をつける。彼の全てが欲しい。その怯えを取り払い、私への愛欲に染めてしまいたい。

───この僕だけを、見てくれ───巽。

「んぅ、、ちゅう・・ぜ・・・ぁ」

「そんな声を出されると我慢、出来そうにない・・・」

耳元で息を吐きつつ囁く。このまま抱きたい、そう中禅寺の思考に過ぎった途端に関口は再び体を強張らせ、我に返ったように震えだした。

「や、やだ」

その表情には恐怖の色が現れている。見開かれた瞳から涙が溢れ出しそうになっている。ほんの僅か男の欲情を漏らしただけで、彼は敏感に感じ取り犯される恐怖に怯えるのだ。

「こ、怖いよ、ちゅう、ぜ、おねが、・・っ」

「・・・・」

哀願する関口を見下ろし中禅寺は辛そうな表情をした。このまま組み敷いてしまうのは簡単だ。関口も事に及べば恐らく壊れてしまうだろう。そうなったら彼の身体は手に入れても彼の心は最早手に入らない。私の欲しいのは彼の心だ。彼がどんな物を押し込めて此処に居るとしても、自分は彼を受け入れ護ると誓った。例え彼が最終的に自分を受け入れなくてもだ。彼と出会い半年が過ぎたが、彼は私に対していまだ怯えている。彼から私を求めさせなければ、私の願いは叶わない。此処で肉欲に溺れ詰まらぬ選択をして身を滅ぼしてはならぬ。

────ここまでだ。

「怖がらせてすまなかった。もうしないから、寝たまえ」

中禅寺は小さく溜息をつき押さえつけていた手を一度だけ、ぎゅ、と握りしめて離し、関口から離れた。

「お休み、関口君」

そういうと関口に上掛けをかけてやり、自分の褥へ戻って背を向けてしまった。無言の時が流れる。取り残された関口は体の震えが治まると、今度は罪悪感を感じていた。中禅寺の辛そうな表情が焼きついて離れない。

───どうしよう、僕は、ただ、

暫く経って冷静さを取り戻した関口は起き上がり、おずおずと中禅寺の背に声を掛ける。

「ご、ごめん、ちゅうぜ・・」

「君が謝る事など無い。無理強いした僕が悪いのだ。君は何も悪くないよ」

中禅寺の声は、落ち着いた何時もの声色だった。だが関口には中禅寺が心を押し殺しているのがはっきり分かった。哀しげな音が胸に伝わる。自分の為に。自分を傷付けない為に、この男は本能や、遣る瀬無さや怒りを押し殺して居る。何より罪の意識が彼を苛んでいる。耳には聞こえぬうつほの音が、関口の胸に伝わり、遣る瀬無い痛みに胸を押えた。ふと、昼間語った伊佐間の言葉が記憶に蘇る。

『何ていうか───君の事凄く好きなんだと思う』

『何ていうか───君の事が凄く支えなんだと思う』

───支え。───中禅寺が、僕を必要としている。何故だかは分らない。支えなら榎さんだって木場の旦那だって居るのに、僕なんか支えなどにはなりはしないのに。

思考が、巡り始める。

『君に拒絶されるのが───僕は一番辛いんだ』

『君だけは、僕を怖がらないでくれ』

───あぁ、中禅寺、僕はそんなつもりじゃない、君を傷付けるつもりは無いんだ、君の気持はとても、とても嬉しいんだ、中禅寺。ただ、僕は、───こんな醜い僕じゃ───。いつかきっと君に。

───捨てられるだろう。どうせ捨てられる。抱くのに飽いたら捨てられる。いつもいつも。そうだよ、いつもいつも。いつも、僕はそうやって。

「君だって、いつかは、僕なんか要らなくなるよ。今は僕の事が単に珍しいだけなんだ」

関口の口からぼそり、と言葉が漏れた。

「関口?」

中禅寺が関口の様子に気が付き、振り返る。関口は静かに中禅寺を見ていた。頬を伝う涙が、ぽたりと膝に落ちる。だが、嗚咽する事無く関口は淡々と言った。

「僕はきっと君に迷惑を掛けるよ。君の重荷になってしまうよ。だから僕に関わらない方がいいんだ。皆最後は僕が鬱陶しくなるんだ。そうだよ、君だっていつも鬱陶しいって言うじゃないか。僕は醜い。存在自体が穢れのようなものなんだ。君は優しいから、見せたくないんだ」

そういって関口は俯いた。中禅寺は、普段の関口とは違う関口の意識を感じていた。混乱は無いが、これは。

───関口君の記憶を握る人格か。

「関口、それは違う。君が居なければ僕も存在する意味が無い。あの時、君が居なければ僕は僕ではなかったかも知れないのだ。君の知る他の者がどうだったかは僕には言及出来る立場には無い。だが君は今僕と共に居て、僕は君を<生涯の伴侶>として選んだ。伴侶は分かち合うものだ。どうして重荷である物か。言っただろう、全てを受け入れて君を護ると。信じてくれないか───僕を」

中禅寺は関口の正面へ座り、関口の涙を拭いてやった。

「生涯の、伴侶───」

「なあ、関口君。今の君は主人格とは違うね。もしや<君>は記憶を<持っている>のではないのか?」

関口は一瞬眉を顰めてそして頭を垂れ苦しげに前合わせを掴んだ。

「───僕は、嫌なんだ───もう、誰とも───誰も───僕の中に入って来ないで」

「巽」

「僕は──君が怖い。君は、僕の中に入って来る。僕を起そうとする」

「───桔梗」

「やめて、嫌だ。君は何故其の名を呼ぶんだ。<それ>はもう居ないんだ」

中禅寺の言葉を遮り怒りを篭めた目で中禅寺を見据える。中禅寺は其の拒絶の意志を見て哀しげに小さく首を振った。

「───名前が関口巽に変わっても、君は君だ。何も変わりはしない。そうだろう?だからこそ君は今でも苦しんでいる。表層意識では忘れて存在を殺して何も無かった事にしても過去は消えない。<君>は其の代償を抱えたまま囚われた儘だ。そんな歪みを抱えていたらいつか壊れてしまうぞ。いや、もう壊れかけて」

「君の所為だ。君が起そうとするからじゃないか」

「───そう、だな。ふふ、痛い所を突くじゃないか」

中禅寺は苦笑する。普段鈍い癖に偶に鋭い一撃を繰り出すのは関口の一面だ。

「君は僕をどうしたいのかい?僕を壊したいのかい?何故助けるの?放って置いてくれれば───その内壊れてしまうのだろうに?」

「何度も言わせるんだなぁ。僕は君を護りたいのだよ。忘れないでくれ」

「どうして護りたいの。こんなもの守る価値なんか無いよ。この塵芥(ちりあくた)はもう死んで居なければおかしいのに」

自嘲気味に微笑む関口に、中禅寺の中に感情が溶岩の如く滾り昇った。其の侭消えてしまいそうな関口の腕を掴み懐へ引き寄せると強く抱き締めながら叱るように言った。

「馬鹿な事を言うな!!良いかその胡乱な記憶に良く刻みたまえ。この僕が居る限り君は僕と生きるのだ。死なせはしないし君を独りにはしない。幼いあの日君が僕を救ったように、今度は僕が君を守る」

「京極堂」

「名で呼んでくれないか」

関口は一瞬、びくりと肩を揺らせて硬直し、暫く無言だったが震える声で言葉を発した。

「───あ、───き」

だが関口は其処で言葉を止め、そして嗚咽を漏らし始めた。

「巽」

「ぼ、<僕>は、だ、だめ、な・・・っ、こわ、れ、て・・・ぅ、うぅっ・・・」

中禅寺は咽び泣く関口の背を撫でてすまないと謝った。

「そうか───<君>は」

───私を覚えているのだね。

だからこそ呼べないのだ。墓に埋めた記憶全てが蘇れば壊れてしまう。表層意識の関口には中禅寺秋彦と言う名前の記憶は無い。だが、全ての記憶を持つこの人格の関口は感づいている。「あきひこ」と中禅寺秋彦が同じ人間だと。だから認める訳には行かないのだ。認めれば全ての記憶を呼び起こすことになる。

「も───もう、いや、な、ん、だ」

───生きて居たくないんだ解放して欲しいんだ僕を、消して欲しいんだ

「もし君が、本当に死を望むなら────関口君」

「僕も一緒に逝こう」

「!」

関口が顔を上げる。驚いた表情で目を見開いている。中禅寺は静かに微笑んだ。

「だが、僕はまだ君とこの世で生きていたい。君は知らなかっただろう?僕は君をずっと捜していた。一日たりとも忘れた事は無い。その漸く君と再会出来たと言うのに君は僕を置いて死ぬと言う。ならば君が僕を殺してくれないか」

「な、なに、を」

「君が僕を殺してくれ。君に貰った命だ。君に返そう」

「や、やめて」

青褪めた関口の頬に手を当てて中禅寺は目を閉じて言った。

「ふふ、でもね。それは最後の手段だよ。僕は諦めが悪い男でね」

「───」

「巽は忘れてしまうだろうけど、<君>は覚えていてくれ。幼き桔梗丸も、<君>も、今の巽も、全て等しく僕の恋しい人だ」

再び抱き寄せる中禅寺に、関口は戸惑うように中禅寺の袖を握った。

「きょ、京極堂・・・」

「必ず君を取り戻す。<君>が苦しまなくて良いように」

「───」

関口は静かに中禅寺の胸に頬を当て、目を閉じた。やがて関口の重みが増した事に気が付き、中禅寺は関口の背を擦る手を止めた。

「───温かい───」

「───関口君?」

関口からの返事は無かった。ただ聞こえるのは静かな寝息だけだった。

「眠ったのか」

関口の中の人格とは何度か関口が錯乱した時に対峙したが、今回の様にまともに話をしたのは初めてだ。つまり、それだけ封印が弱まって───人格同士の境界が薄くなって来て居るという事だろう。何が切っ掛けで別人格が表層に出てくるのか確定はしないが関口が自分を怖れる理由もこれで凡そ理解出来た。中禅寺は眠ってしまった関口をそっと寝かせ、頬に口付けた。

「やれやれ、とんだ初夜だったな。明日も思い遣られそうだ」

と冗談交じりに肩を落とし苦笑する。すっかり眠れなくなってしまった中禅寺は、関口の置いた膳の酒を呷り、持参した書を読み始めた。


───温かい。良い匂い。此処は安心。

関口はまどろみの中で漂っていた。凛とした中に忍ぶ優しい香り。この香りは知って居る。中禅寺の香だ。香りに浸りより深く眠ろうとすると、

『思い出すの?』

と言葉が浮かぶ。

───思い出す?

ふと見れば、自分の前に立つ振り分け髪の童。以前何処かで会った気がする。

『あの子が目を覚ましかけてる』

───あの子?

童が指を指す其処には、荒縄の結界が有り、其の中に垂れ髪の少年が項垂れた儘座り込んでいた。其の姿は白拍子の様であり、しかし薄汚れ乱れた着物からは血が滲んでいた。そして荒縄の結界は所々が解れ、少し力を入れれば関口にも千切れそうだった。

「ねぇ、あの子どうしたの、怪我してるんじゃない!?助けてあげないと」

『見える様になったんだね、あの子が』

「見えてるよ、待ってて今助けるから」

だが、関口の身体は其処から一歩たりとも動かなかった。童が首を振る。

『まだ、だめなんだよ、ぼくたちじゃ、まだ駄目なの』

「そんな、でも」

『でも、君が、前を見てくれるなら、あの子も開放されるから』

「ねえ、あの子は一体何者なの?君は?」

関口は少年の所へ行こうとするのを諦めた。ぴくりとも足が持ち上がらないからだ。代わりに童に向き直って聞いた。童は少し困ったような顔をして言った。

『ぼくはぼくだよ。あの子もぼくで、そして君もぼく』

「!?え、なに、それ、」

<もう、壊れそうなんだ>

結界の中の少年が呟く。顔は俯いたままで見えないが、肩が震えていた。

<彼が、あいつが、僕の中に来る>

「彼?あ、あいつって?!」

<ねぇ、彼は本当に僕を護ってくれるだろうか───。あいつから>

「護る───?僕を?」

『ねぇ、信じようよ、ぼくは知ってるんだよ』

<───分らない、怖いよ、やっぱり、このまま、沈めておかないと>

「ねぇ、意味が分らないよ!!い、一体、誰の事を言ってるんだい!?」

恐怖と焦りと苛立ちで関口が大きな声を上げる。すると、童が関口を見上げた。少年も、関口を見たようだった。関口は二人の視線に怖気づいて後ずさる。そして二人は重なるように同じ事を言った。

『ぼく<僕の側に居る人>だよ』

「そ、側に」

関口は周囲を見渡す。だが其処には何も居ない。結界の中の少年は苦しげに言った。

<信じるのが怖い、微かにあいつの臭いがするんだ、だから───僕は>

『でも、あの人は温かいよ───今だって』

少年の言葉に童は哀しげに言った。

───温かい。このまどろみの温かさをくれる人。それは

「中禅寺、なのかい?」

関口は童に問うた。童は嬉しそうに微笑んだ。少年は俯いたまま、言った。

<もし僕らが壊れたら、泣いてくれる人は居るのかな。あの人は、泣いてくれるかな>

関口は其の言葉を聞いて答えた。

「中禅寺かぁ。泣いてくれるかなぁ───寧ろ怒られそうだよ」

少年は少し顔を上げた。関口の言葉に驚いたようだった。そしてほんの少しだけ、笑ったようだった。

<そっか────。そうかも、しれないね。怒ってくれる、か────>

ふと、足元を冷たい風が吹いた。関口は其の冷たさに縮こまる。急に周囲が遠ざかり、ぞくぞくする冷たさに意識が浮上した。

───さむ───。

寒さに目を開ければ、其処は自分の屋敷だった。夜が更けて冷え込んで来たようだった。上掛けに包まろうとして、関口は人の気配に気が付く。

───中禅寺。

少し離れた所に燭台があり、其の灯りの下で中禅寺が横になりながら本を読んでいた。

───眠っていたのか。

中禅寺を拒絶したあと、そのまま眠ってしまったのだ。頭がはっきりして来るにつれて、関口は再び罪悪感と寂しさに襲われた。冷え込む体温がより一層寂しさを増す。だが、声を掛けるのは先程あれだけ拒絶した事でどうにも憚られる。やはりこのまま寝てしまおうと上掛けに潜ろうとした時、中禅寺がこちらを向いた。

「目が覚めたのかい」

「───ちゅう、ぜんじ───」

「少し冷えて来たからな。温石も大分冷めて来たが、使うかい?」

穏やかな声で中禅寺が足元の温石をとろうと身を起した。

「あ、あの」

関口は思わず起き上がって中禅寺の元へ身を乗り出した。少し驚いたように関口を見る中禅寺に、関口は意を決して言った。

「や、約束だから・・・その」

思わず視線を逸らしたが、後には引けなかった。

「さ、寒いから、その」

耳まで真っ赤になりながら手を伸ばして中禅寺の上掛けを掴む関口。中禅寺は関口の態度に少し戸惑っているようだった。

「関口君、どうしたのだね」

「や、約束だって、き、君が言ったんだぞ、そ、それに、ぼ、僕は温かいって、き、君が言ったんだぞ、ぼ、僕だって寒いけど、で、でも」

関口が言い終わらない内に中禅寺の手が伸びて関口の頬に添えられた。冷えて冷たくなった手に、ぶるりと身震いする関口。

「つ、冷たい!」

「この通り、僕も冷えているんだが」

「うぅ」

「それでも良いなら、おいで」

中禅寺は上掛けを上げて、関口を招いた。関口は自分の上掛けに包まったまま、もぞもぞと中禅寺の横に寄り添う。そして中禅寺の上前をそっと握った。中禅寺は関口にも被るように上掛けを戻し、そのままそっと背に手を回した。また怯えられたらと思うと、過剰に神経を使う。だが、関口が自分から自分を求めて来たのだ、今拒否する理由は無い。

「こうしていても大丈夫かい?」

「────温かいよ」

────そう、この香り、この温かさ。懐かしい。大好き。

そう思って、関口は自分の思考に赤面した。子供のような思考に、自分が恥ずかしくなる。だが、離れる気にはならなかった。

「僕もだ。矢張り君は温かいね。人を温めるには人肌が一番良いと言うが、こうして温もりを分け与えて得られるのは、体温だけでないと思うのだ」

───さびしい?

ちくりと胸が痛む。中禅寺の言葉に乗って、寂しいと痛む。それは関口も同じだった。

「中禅寺も、さ、寂しいのは、嫌だよ・・・ね」

───僕も、君も、寂しいのだ。本当は寄り添える温もりが、ほしい───

「───!お、おい」

関口が泣いている事に気が付き、中禅寺はまた拒絶されるのではと手を思わず関口の背から離した。だが関口は中禅寺の胸に顔を埋めるようにして中禅寺の胸前を握っていた。

「あ、あ・・秋彦、僕は、き、君を頼っても、いい、の、?」

「関口」

「だ、駄目なら、言っておくれ、ぼ、僕は、な、慣れてるか、ら、め、迷惑だ、って」

震えながら関口はどもりつつも言葉を紡いだ。中禅寺は関口を抱き締める。

「本当に君は何処までも胡乱だなあ。僕は何度も頼れと言ってるじゃないか」

「うぅ、だ、だ・・・って」

「吾妹(わぎも)に頼られてこそ男の甲斐性じゃないか、僕を素通りしないでくれよ」

「わ、わぎも・・・!ぼ、僕もお、男だぞ」

「分ってるさ。当然だが本物の女の様には甘やかさないぜ。其処は区別はするぞ。一応君も公達なんだから、それらしい風格は身に付けて貰わないと僕も恥ずかしいのだからね」

「ぇ、うぅ」

「それも僕の愛情だと有りがたく受け取り給え───心配するな、君の手を離したりしない」

────あぁ、君の、音が響く。君から流れてくる温かさを信じたい。

「───あ、あき、ひこ、」

────けれど心の奥深く、寂しいと、辛いと、消えたいと囚われた僕が叫ぶのだ。だから、もっと、温めておくれ、僕の中の氷が溶けてしまう程に。この辛さを忘れさせて。

「此処に居る」

想いに胸が熱くなり涙が溢れる。彼の想いに自分は何一つ応えてやれないのかと思うと情け無く、後悔の念に押しつぶされそうになる。せめて彼の背中を抱きしめて、関口は心の中で中禅寺にすまない、と繰り返すのだった。関口の手が背中に回され、中禅寺は其の手の暖かさに幸福を感じていた。だが一方で、関口が震えている事に寂しさと切なさを拭いきれなかった。自分を怖れている関口。だが彼なりに自分を受け入れようとしてくれている。愛おしい。

「お休み、巽」

静かに囁き、そうして中禅寺は額に口付けた。肩を震わせる関口の背中を宥めるように優しく擦ってやる内に、関口は弛緩して寝息を立て始めた。それと同時に中禅寺にも眠気が訪れる。関口の気と同調しているのだろう。赤ん坊や小動物が寝ているのを見ると、眠くなるのもこれと同じなのだろうか。などと考えている内に意識が遠のいていく。漸く、これで自分も眠れそうだと中禅寺は苦笑した。

───誰よりも僕と同調させる時間を取らなければ。君は直ぐにふらふらと他の所へ行ってしまうからねぇ。

そして関口の髪に顔を埋め、中禅寺も目を閉じた。


「起きたまえ関口君」

「うぅ・・ん」

軽く口付けられて意識が浮上する。

「ほら、もう起きて準備しなけりゃいけないだろう、僕も一旦屋敷に帰るからもう行くよ」

「うぅん・・・もう一寸・・・とりぐ・・」

「とり?」

いきなり冷水を頭から浴びせられたような冷たい気配に関口の目も一気に覚める。

「と、え、あ、」

がばっと起きるともう狩衣に着替えた中禅寺が立っている。

「とっとと起きたまえ」

まるで氷から発せられる様な冷たい声は昨夜自分に愛を囁いていた男と同一人物とは思えない。

「ひぃ、お、おはよう中禅寺・・・」

ばつが悪そうにもそもそと起き上がる。眉を顰めて中禅寺は「ふん」と鼻で息を吐き御簾を開けて廊下に出た。関口も上掛けを羽織り、後を追って廊下へ出る。

「・・・もういくのかい?」

「ああ、帝に今日の吉凶を占じなければならないからね。君みたいに暢気気ままに絵を描いてれば良い訳じゃない」

「・・・そ、そうだね・・・」

中禅寺の毒舌に関口はしょんぼりと落ち込んだ。その様子に中禅寺は言い過ぎたと気が付き、戻って来た。今の言葉は関口がまた鳥口、と言い掛けた事に対する単なる八つ当たりだった。関口の口癖は長年の習慣で別に意味が有る訳ではないのだ。そんな事は分っているのについ、嫉妬心を煽られる。それで関口を傷付けては本末転倒ではないか。自分らしくないと頭を掻いて、関口を見る。

「───悪かった。すまない、関口君。君も今じゃあ立派な絵師だった。最近は絵の仕事も増えて忙しいのだろう?良い事じゃないか」

「───」

「頼むから機嫌を直してくれよ。見送ってはくれないのかい?ほら、早くしないと鳥口君が起しに来るぜ?」

見送り、と言う言葉に反応して関口は顔を上げた。家人が起きてくる前に送り出さねば。鳥口や使用人にこんな所は見せられぬ。

「え、あ、うん、待って」

慌てて燭台に火をつけ中禅寺の横に立つ。乱れた単が照らされて艶めかしい。

「後朝の別れなのに」

そんな関口の首筋に口付けつつ、囁く中禅寺。

「ちょっ・・・あ、危ないよ、ほら、蝋燭!」

言いつつ肌蹴ている前を片手であわせ真っ赤になる。

「正確には未遂だがね」

と中禅寺は苦笑しつつ歩き出す。夜はまだ明けない。関口は口を尖らせて中禅寺を見る。目の前の男はこの屋敷を出れば自分を抱き締める中禅寺ではなく、京極堂と言う都を護る陰陽師になるのだ。それは寂しく惜しいような、しかし、日常へ戻れて安堵するような、そんな思いに心が揺れる。そうこうしている内にもう玄関へと着いた。此処で別れだ。

「じゃあ、また」

靴を履いた中禅寺が暇乞いをする。

────え、えと、こ、こういう時には、な、何を、言えば良いんだ?

関口は何を言おうかと必死で考えるが言葉が出てこない。源氏物語とか落窪物語では何と言っていたんだっけなどと必死で思考を廻らすが、顔が真っ赤になって汗が噴出すだけでちっとも浮かばなかった。

「おいおい、何か言ってくれよ寂しいなあ。後朝の情緒も無いじゃないか。どうせ今日は君も出仕だから後で会えるからいいやとか適当に考えてるんだろうけどね」

やれやれと困った顔をする中禅寺に、関口の口から出たのは

「あ、あの、き、今日、今日は・・・?」

中禅寺は目を瞬いたが、直ぐに微笑んだ。

「それは僕の今宵の来訪を期待してくれているのかな」

「えっ、あっ、そ、その」

思わず口を突いて出たが、自分でも良く分らない。だが、中禅寺は良い方に捉えたらしかった。中禅寺の嬉しそうな顔に関口の胸の鼓動が響く。

───ぼ、僕は、き、君に、来て、欲しい

断られたらという染み付いた暗い思考が離れない。それでも、

「・・・え、いや、その・・・君が・・・嫌じゃなけれ、ば・・・」

やっとの思いで関口は言葉に乗せた。中禅寺の目が細められる。

「・・・嫌なものか。嬉しいよ、君に来るなと言われたらどうしようかと思ったよ」

軽く笑って中禅寺は関口の頬を撫でた。少し髭が生えて来ている。やはり男だなあ、と中禅寺は苦笑した。

「きちんと髭を剃って来いよ?」

「うぅ、わ、分ってるよ」

「じゃあ、また」

「うん、また」

中禅寺はまだ夜が明けぬ暗い空の下、牛車に乗り込み去っていった。関口はそれを複雑な思いで見つめていた。


その後、関口も着替えやら準備やら済ませて出仕しようかと言う頃だった。鳥口が慌てて駆け込んでくる。

「先生!!文です!!」

「は?」

ばたばたと部屋に駆け込んで文箱を両手で恭しく差し出す鳥口。なんだか口元が歪んで笑いをかみ殺している。

「中禅寺様からですよぅ〜」

「ひっ」

思わず引き攣った声が出てしまった。

───こ、これは、まさか、あ、あれか!?あれなのか!?

鳥口から恐る恐る文箱を受け取って、生唾を飲み込み、意を決して中を開けてみる。焚き染めたのであろう中禅寺の香がふわりと漂う。中には文が入っていた。

「なんて書いてあるんですか先生??」

鳥口は興味津々の様子で目を輝かせている。ぐずぐずしていたら奪い取りかねない勢いで覗き込もうとしている。

「ちょ、お、押さないでくれよ、よ、読むから!え、え・・と」

<尽きせざりつる御けしきに、いとど思ひ知らるる身のほどを。堪へぬ心にまた消えぬべきも、“とがむなよ 忍びにしぼる 手もたゆみ 今日あらはるる 袖のしづくを”>

【相変わらず打ち解けてくれなかった君の様子に身の程を知れと思い知らされる哀れな自分だよ。君に受け入れられぬ耐えがたい辛さにこの命も消えてしまいそうに成るけれど、やはり押えられぬ恋心からこの手紙を書くのだ。“あぁ怒らないでおくれ君。今までは一人忍んで涙に濡れた袖を絞っていた私の手も絞りつかれて手の力も抜けてしまい、今日は涙の雫が袖に流れるままになってしまった。”───僕はもう隠れない、誰にも遠慮はしないよ】

読み上げて、沈黙した関口と鳥口。先に声を上げたのは鳥口だった。

「うへぇ!!か、かっこいいじゃないですかー!!?ちょっと先生何ボーっとしてるんですか!!返歌返歌っ!!」

「お、おい、何で君が盛り上がってるんだよ!!」

「だって、これ、ぶはっ!!あ、あの陰陽先生が・・・っ」

「笑うなーっ!!あんまり笑うとあいつに呪われるぞッ!!」

「うへぇ!それは勘弁してくださいよッ!!っていうか早く返歌しないと先生こそ呪われますよッ!!」

鳥口は大笑いしながら硯と紙を取りに走って行った。残された関口は額に手を当てて玄関に座り込む。

「昨日は<今更僕らに懸想文からも無いだろう>と言ってたじゃないか、なんでこういうのはやるんだよ、僕は朝は起きて出仕するのがやっとなんだぞ───!」

どっと積もってきた疲労で溜息をつく関口に、鳥口は

「いやしかし、こんなに早く出して来るなんて流石は師匠ですねぇ!」

と褒め称える。後朝の歌は早ければ早いほど、相手に対する愛情が深いとされる。だから女は相手が帰った後、首を長くして返歌を待つのだ。

「別に流石じゃないだろ・・・男女間なら誰でもやってる事じゃないか。って言うか、どうせこれから内裏で顔合わせるのになんでこんな歌送って寄越すんだよ」

「いやいやいや、それを言ったら野暮じゃないっすか〜〜?そこはもう貴族のお約束って言うものでしょ!上流貴族ってこういうなんか良く分んないのがみやび〜って話じゃないですか!それに昔から男同士の恋愛の方が穢れがなくて純粋とか言う話も有りますし!」

「ぶっ・・・!おいおい君・・・っ」

君まで変な趣味に走るんじゃないだろうね、と言いかけた関口に

「あ、大丈夫です僕ぁそっちの趣味は無いです。やっぱり女の子が良いっすよ!!」

とキッパリと言い切る鳥口。

「そうかい安心したよ・・・。あれは特別なんだ、普通じゃない」

「ですよね!先生も普通じゃない所あるから気が合うんですかネェ」

「・・・鳥口君・・・?」

さすがに米噛みをひくつかせつつ鳥口の名を呼ぶ。

「うへぇ!すみませんっ、あ、そうそう、昨日は急な事であんまり持て成し出来ませんでしたけど今日は準備ばっちりですから!」

胸を張って自慢げにいう鳥口。何が準備ばっちりかは知らないが、どうせ碌な事じゃないだろう。

「あぁ。もう適当に頼むよ・・・じゃあ行って来る」

何とか返信を書き終えて鳥口に渡すと、半ば投げやりになりつつ、関口も出仕の為に牛車に乗り込むのであった。


-十一話・了-
-続-

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