平安朝百鬼夜行

第十三話:北の方


三日夜の餅、露顕を行った事で、名実共に中禅寺の妻になってしまった関口。
しかし、関口は一応元服まで済ませた男であるから、日々の食い扶持を稼ぐ為に働かないといけない。巷の深窓の姫君宜しく屋敷で夫の通いを待っている訳にも行かず、それどころか夫と同じ職場で働いている身なのだ。ため息をつきつつも参内し、描き上げた絵を献上する為、昼御座(ひるみざ)にて執務を行う榎木津に謁見した。


「───ええと、本日は八枚描き上げて参りました」

「おぉ、猿君にしては順調に進んでいるな!父上も猿君の絵は凄く気に入ってるぞッ」

榎木津は関口の描いて献上した植物画を熱心に見ながら褒めた。人物はともかく、彼の絵に関しては正直に褒めている。

「あ、ありがとうございます」

褒められて頬を染めて照れたようにはにかむ関口。その様子を見て榎木津が杓を関口に向けて言った。

「京極とはうまくやってるのか?」

「・・・えっ!?」

「正式に妻になったんだろ?だって、それ。三日夜の餅食べてるじゃないか」

「は、はいっ!?」

見ていたような榎木津の言葉に混乱する関口に更に榎木津が追及する。

「どうなんだ、上手いのか下手なのか」

「え、え、???う、うまいとかへたとか言われましても・・・い、意味が分かりませ・・・餅は餅ですし・・・」

三日夜の餅は別段味も付いていないただの餅だ、帝はそんな餅を食べたいのか?ああ、猪子餅も欲しがったっけ・・・などと混乱しながら考えていると、榎木津が御座から降りてずかずかやって来る。仁王立ちして関口を見降ろした。

「なんだ煮え切らない男だなあ!良いじゃないか別に教えてくれても!」

「いや、教えるって何を・・・」

「閨事に決まってるじゃないか!」

「は?」

ぽかんとした表情で時間が止まったように固まった関口の両耳をむにっと掴んでついに痺れを切らした榎木津が叫ぶ。

「全ッたくにぶにぶちゃんだなぁ!!ねーやーごーとー!枕を交わしたんだろうが!!どうなんだあいつは上手いのか下手なのかはっきりしたまえ!!いくら万年仏頂面の地蔵だって、失語症の猿だって初夜には睦言の一つや二つ位言ったりとかしたんだろう!?」

「はああああああ!?〜〜〜〜!!!?み、みか、どっ、な、何、い言って、いって、る、るんですかっ!?」

榎木津は半目をして関口の記憶を見るが、如何せん殆ど真っ暗な記憶しか写らない。
でなければ京極堂の間近かに迫った顔くらいだからもう詰まらない事この上ない。
只でさえ暗い部屋で、事に及ばれている時は関口は殆ど目を瞑ってるから、視覚的記憶など殆ど無いのだ。

「くそう、京極のやつめ、態と部屋を暗くしているなッ」

「み、みか、ど、あの、ぼ、ぼくは、あの」

「猿君がしどろもどろで分け分からなくなってるのはまあ予想内だが、京極の奴までこうも見せないとは、絶対確信犯だ!飼い主としては飼育員が下僕の面倒をちゃんと見ているか知る権利があるのに!」

人の夫婦間を覗き見る権利があるのかは別として、この帝は二人の夜の生活が気になって仕方ないらしい。
関口としては、殆ど夜の生活と言うほどのものは無く、本当に只寝てるだけなのだが・・・。露顕の日の晩は、実は関口は中禅寺の行為にやはり怯えて拒絶してしまい、中禅寺も連夜で関口を無理させるのは避けたため、同じ床では寝たがそれだけだったのだ。

───夫婦、と言えるのだろうか。と言うかそもそも<夫婦>が成り立たない関係なのに。

そもそも、露顕の後も夫が通うかどうか等は確定されていないのだ。他に良い女がいれば男はそちらへ通い始め、夜離れ(よがれ)や床去りと言って、夫が通わなければそのまま自然離婚となるのだ。その間女はずっと来ない男を待ち続ける事になる。
愛人の多い男を夫に持った場合、その精神的な負荷は多大である。正妻である北の方は離婚する事は難しいが、その他の妻は夫が通って来なくなれば其れで夫婦の縁も終わりなのだ。正妻とて、子供が出来ないとなれば、下手をすると正妻の座を奪われてしまうこともある。身分がより上の女、後ろ盾の確りした女と夫が結婚した場合も正妻の座を奪われる事もある。

妻と言うものは本当に身の置き所の不安定な浮き草のようなものなのだ。

中禅寺とて、それなりの地位とそれなりの年齢だし他に既に妻となっている女が何人か居る筈だ。関口の様な奥手の方が珍しいのだ。もうここまでくればいっそ出家した方が良いかもしれないと思うほどである。
しきりに自分に北の方と言う中禅寺だから、まだ正妻は居ないのだろうが、それにしても端から男である自分が妻を名乗ること自体が変なのだから飽きれば関口の元には通わなくなるだろうと思っている。良くある衆道趣味のようなものだろう。貴族にはそういう趣味の者はけして珍しくない。流石に妻にすると言う話しは聞いた事が無いが・・・。ただ、そういう関係を解消したとしても彼との友人関係だけは失いたくないと思っていた。

「僕は男だから、妻にはなれませんよ・・・」

ぼそ、と呟く。

「馬ッ鹿だなあ!あいつがお前が良いって言ってるんだからそれで良いじゃないか!」

「な、何言ってるんですか帝!!」

「あいつは普通じゃないから普通の女では駄目なんだろ。君がうってつけじゃないか!割れ鍋に綴じ蓋だな!伴侶が男か女かはあいつにとってどうでもいい事なんだろう?だから君が良いって言ってるんじゃないか。何にも困った事なんかないのにわざわざ困っているのは君が困りたいからなのか?変な趣味だなぁ!おっ、困ったと言えば猿と鴉の夫婦だから夜は木の上だろう?でも関猿は木に登れないじゃないか!!これは困ったなッワハハハハハ!!」

「酷いよ榎さん・・・」

帝に肩を揺すられつつ、関口はちょっと気が遠くなっていた。
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帝との謁見も終わり関口が中庭でぼんやりしていると、女房たちの会話が御簾の奥から漏れ聞こえてくる。彼女らの会話は自分にとっては良く分からない話ばかりだ。今日の召し物の色合わせの自慢から始まり、自分の仕える姫君の自慢や他の女房の批評、絵巻物や歌合せや貝合わせで盛り上がる声。普段は御簾の奥にいる彼女たちだがやはり女房たちが集まれば姦しい物である。

「枕草子みたいだなぁ・・・」

清少納言という女房が書いた草子は必読の書として関口もなんとなく読んだ事が有る。うわさ話に花を咲かせる女房たちは、あの草子の光景のままだと関口は思った。その中でも華やぐのはやはり宮中に仕える公達の話だろう。関口にとってはまるで興味のない話題なのでぼんやりと聞き流していたが、<京極堂>という単語にはっとして思わず耳を傾ける。内容は文を送ったが断られた女房が居た事、某お方の子女との見合い話があった事、京極堂の交友関係などであった。男達と違って政治や権力がらみの話ではないせいか、関口の名前は殆ど出てこなかったが、たわいのない噂話だとは思えど関口にとっては圧し掛かる罪悪感に押しつぶされそうであった。逃げるようにその場を離れ、自室に引きこもる。

───なんてことだ・・・やっぱり間違ってたんじゃないか・・・あんなに中禅寺の事を気にしてる女性たちが沢山居ると云うのに、僕なんかが───大体、あいつってば何にも問題ないっていつも言ってるけどほら見ろ、世間じゃ君だってちゃんと話題になるくらいには女性に気にされてるんじゃないか!どうしよう、姫君になんて酷い仕打ちを──

関口は頭を抱えて自責するが、そもそも姫の文を断ったのは京極堂である。京極堂が女性に連れなくした所で関口の所為では無いのだが、彼にとって自分が女性ならともかく男である自分の存在の為に本来番と成るはずの女性が涙を流しているかと思うと胸がえぐられる思いだった。

「ああ・・・もう、うちへ帰ろう・・・疲れた」

逃げるように牛車に乗り込み家路へ向かう。消耗した出仕も済み、漸く家に帰ると倒れこむように板の間に寝転んだ。

足掛け四日に渡った妻問いも、露顕で一段落付いた。流石に久し振りにのんびり出来そうだ、などと考えている。

───少し休んで夕飯食べて、描きかけの絵を仕上げたら今夜は早く寝てしまおう。京極堂だって前に女性には不自由していないって言ってたし文を断った姫じゃないにしろ通う女性くらい居る筈だ。だから流石に今日は此処へは来ないだろう。たとえ来ても、今日はもう僕は疲れてどうしようもないんだ。相手なんかできないぞ。

「ああ、もう、本当に疲れたよ・・・・うぅ・・・」

大の字になって転がる。天井の節穴なぞ数えている内に、疲れていた関口は直に丸まる様にして眠ってしまった。


「先生!起きて下さいよ先生!旦那様がみえましたよ!」

鳥口の声がする。

「・・・・、ぅん・・・・うん・・ふぁ?」

旦那様って誰だよ。と寝ぼけた頭で考える。

「は?じゃないだろう、夫がやって来たのに思いっきり寝てる妻があるかい」

低く良く通った不機嫌な声がする。

「は!?」

その声に急速に眠りから引き戻されて上体を起こすと、そこには、直衣を来た中禅寺が眉を寄せて不機嫌そうに立っていた。急に身体を起こした事で少し目が回る。

「な、なんで??」

左手で顔半分を押さえて支えながら、いまだぼんやりした顔で中禅寺を見上げる。

「何でじゃないだろう、妻の家に夫が来ちゃいけないのかい?」

「い、いや、でも、今日は他の人の所に行くんじゃないのかい、もう妻問いも終わったじゃないかそれに、今日は」

関口の言葉を聞いた中禅寺は眉間に皴を刻んで胡乱な新妻を睨みつけた。

「馬鹿も休み休み言いたまえよ、君は新婚早々夫に浮気しろとでも言うのかい。それともさっそく君が浮気してるのかい?」

「は?ち、違うよ、そう云う訳じゃないけど、」

「愛しい新妻を置いて他へ通う訳無いだろう。ほら、いつまで夫を立たせておくのだね」

「あ、う、うん、ごめん・・・」

結局押し切られて関口は中禅寺を迎え入れ、上座へと案内した。中禅寺は既に勝手知ったる我が家のように寛いでいる。夕餉の後、美しい女性の姿をした式神に酌をさせつつ

「今日も帝に絞られてたらしいね、大方閨事の事でも聞かれてたんだろうがね、君は得意のああ、ううとでも言って誤魔化しておけば良いのだよ」

などと、面白そうに今日有った事を話している。関口は、酌をする式神の姿を見ている内に女房達の会話を思い出して胸が痛む気がしていた。関口にも微笑んで酒を進める式神を首を振って断り、次第に虚ろな目を床に落として相槌もうたずに黙ってしまう。

「・・・・どうした。元気がないな。大丈夫かね?」

黙って俯いている関口に気が付き声をかける中禅寺。関口はっとして顔を上げる。

「ふうむ。顔色が余り良くないなぁ。此処の所忙しかったから、疲れが出たか。君にとっては未知の事ばかりだったろう。済まない気づくのが遅くなってしまった。今日は早く休むとしよう」

確かに疲れていたから、それが顔色にも出ているのだろう。関口は中禅寺がそれに気づいてくれた事に少し安堵した。中禅寺は席を立つと鳥口に早めに休むことを伝えた。鳥口は使用人を呼び床を設えさせると、二人を呼びに来た。

「お湯と床の準備が出来ましたよ、さっぱりとしてゆっくり寝て下さい。じゃ、師匠、後はお任せします。先生お大事に。僕ぁこれで」

鳥口は調子よく挨拶すると、自分の部屋へ戻っていった。

「ありがとう、お休み」

中禅寺が返事をする。関口ももごもごと礼を言ったようだ。

「君は先に行って休むと良い。僕は書を読むとしよう」

「・・・うん、じゃあ」

言うが早いか中禅寺は書物を広げて目を落とした。関口は申し訳なさそうに立ち上がると寝室へ入っていった。部屋に残った中禅寺は暫く書に目を走らせていたが、眉間に皴を寄せると悩ましげに溜息を吐いた。

「やはり少し性急過ぎたか・・・。だが胡乱な君の事だ。放っておいたら何れ有耶無耶に引き寄せられふらふらと彼岸へ行ってしまうだろう。手を掴んで置かねばならないのだ。たとえ君がそれを望まなくとも・・・その役目は他の誰でもない、この僕がやらねばならないのだ」

彼岸ではなく、此岸に繋ぎ止める為の楔は自分以外居ないのだ。確固たる意志は揺るがない。だが関口のゆらゆらと水面を漂う水海月のようなその不安定さには、時として懊悩させられる。情が有る故だと理解していてもこればかりは如何ともし難い物だ。中禅寺は苦笑すると、再び黙々と読み始めた。


体を拭いて単衣に着替え、床に就く。薄い畳を重ねた寝床に横たわり、昼間着ていた上着を被る。衣擦れの音にほう、と安堵のため息を吐く。重さは無いが、包まっているという安心感を得られ関口はまどろんだ。
当時、綿は超高級品で有り、綿の入った寝具は位の高い者でないと使う機会は無い。市井に住む人々は土間で藁に包まって寝ている時代だ。綿布団という物は相当に時代が下がってからの物である。関口は榎木津に取り立てられ中流貴族になったとは言え、自身の身の回りの事には無頓着で有り放っておくと着の身着のままで床に転がっている事が多かった。それを何とか人前に出ても可笑しくない様にしていたのは絵の弟子であり縁者の鳥口であり、帝や中禅寺達と出会ってからは彼らが何くれと宮中に人並み出入りできる程になる様に心を砕いていたのである。

「・・・・・」

結局、今日も彼は来た。嬉しくないのかと言われれば嬉しい。中禅寺の傍では自分は安心して眠れる。それは自覚している。中禅寺と眠っていると魘されないのだ。あの凶悪な人相の陰陽師は悪夢も祓ってくれるのだろうか。

・・・僕がもし女だったら、僕は君に会えただろうか。いや、きっと会えなかっただろう。だから僕は。男で良かったと思う。夫婦として君とは結ばれなくても、友達として付き合っていけるなら僕は其れで幸せなのに。。なのになぜ君が、そこまで僕を北の方にしたいのか本当に分からないんだ。せめて、君に釣り合う公達で有れば状況はまた変わっていたのだろうか。

「御免よ中禅寺・・・」
 
関口が意識を手放して後。さらに夜が更けた頃、中禅寺は書を読み終え寝室へやってきた。関口は既に床で丸くなっている。相変わらず小動物のようだ。
体を拭きながら、薄明かりにぼんやりと照らされつつ眠る関口を見る。魘されては居ないようだ。寝巻きに着替え、関口の傍に腰を下ろす。薄明りの中、関口の寝顔を眺めれば幼げにも見える。手を伸ばせば触れられる距離。そっと髪を撫で、穏やかな表情で暫く吾妻の寝顔を眺める。

「我が身はこんなに傍に居るのに肝心な君の心にまだ添えないのか。先回りして受け止めようとしても君は怯えて逃げていく。追いかければ猶更だ。君の体だけ得たとしてもそれは単なる器なのだ。心に男も女もない。男だの女だのを決めるのは外側の理由なのだから。僕が欲しいのはもっと内側の───。君の魂なのだよ、巽」

何も知らぬげに眠る関口に、憎々しささえ覚える。手に入れて自分だけの物にしたい、無茶苦茶にしてやりたいという肉欲と共にこの者の為なら我が身を投げ出しても良いと鬩ぎ合う、目の奥が熱くなり焼ける様な胸の苦しさが恋という物なのだろう。哀し気に微笑むと中禅寺はつぶやく。

「泣くは我、涙の主は其方ぞ」

関口の頬に口付け、中禅寺も目を閉じた。

中禅寺はその後も関口の家へ通っていた。通い続ける中禅寺に対して、関口には他の女性達への負い目を拭い切れない部分はあるが、、彼らの事情を知らぬ周囲には自らを関口の<後見人>だと言い切って堂々と上がり込んでくる中禅寺──対外的には「陰陽師京極堂」に、周囲の目も慣れてしまったようだった。中禅寺が来ないのは物忌か宿直の日くらいであり、自分も一応家を空けたり、内裏に泊まったりする事も有るからそれを差し引けば二人が屋敷で夜を共にするのは実質半月程ではある。が、冬支度を迎える頃には、この通い婚生活に関口も慣れて当たり前になって来ていた。

三、四日ほど中禅寺が関口の屋敷に来なかったそんなある日、中禅寺から自分の屋敷に来て欲しいと誘いがあった。牛車が来て迎えに来ている。訝しげに思いつつも、関口は鳥口から酒や干菓子などの手土産を持たされ、迎えの牛車に乗って中禅寺の屋敷へ向かった。

「お邪魔するよ。君の屋敷に来るのは久しぶりだなあ」

「良く来たね、あがり給えよ」

すこぶる機嫌がいいようだと関口は感じた。

「うん、あ、これ土産」

「ほう?干菓子だね、後で一緒に食べようじゃないか」

嬉しそうに中禅寺がいうので、関口も何だか嬉しくなった。屋敷に通されると、何だか新しい木の匂いがする。

「あれ、木の良い匂いがするね」

「ああ、増築したからね」

「へえ、そうなんだ」

好奇心を擽られた様な関口の表情に

「ここだよ」

そういうと、中禅寺は御簾を上げる。その向こうには新しい部屋ができていた。

「北の方だよ。時間が掛かったがね、漸く完成したのだ」

中禅寺がにやりと笑いつつ言う。

「・・・え」

「君の部屋だ」

一瞬の間を置いて関口は後ろによろけて驚く。

「ええええっ!!!!!!ちょ、ちょっと、ま、ちゅ、ちゅうぜ・・・」

部屋を指差してぱくぱくと酸欠の鮒のように口を開けている関口に悪びれる事もなく答える中禅寺。

「言っただろう、何れ君を呼ぶって。でも、先に君に一度見せて置きたくてね。工房も付けて有るから、いつでも絵を描ける」

関口の為に工房を付けた為、工期が少々遅れたと中禅寺は言った。確かに、立派な工房が──出来ていた。

「・・・・」

驚きのあまり声が出ない関口。

「どうだい?大体絵を描くのに必要なものは揃えてあるが君の工房だからね、何か希望は有るかい?遠慮なく言い給え」

「き、きき希望って??」

「決まってるだろう、調度品やら何か用意して欲しい物は有るかと聞いているのだ」

「い、いや、そんな、い、いいよ、」

「遠慮する事は無い、新妻の調度くらい」

「だ・・・・っ、だから新妻って止めろよッ!!」

中禅寺の口を遮って関口が怒鳴る。耳まで真っ赤にして怒っていた。

「い、いい加減にしろよ、僕は、た、確かに、き、君と契ったけど、で、でも、い、いくら僕だって人としてやっていい事とやっていけない事くらい分かるよ!!ぼ、僕にとって、確かに君は、だ、大事な人だけど、でも、その部屋は───女人のものだ、僕は、僕は男なんだ!!き、君の趣味にどこまでもついて行けると思わないでくれよ・・・っ、だから、だから僕は、君の正妻になんかならない!!帰るッ!!」

言うが早いか、踵を返して走っていく。

「関口」

中禅寺の声を無視して屋敷を飛び出していく。中禅寺は、眉間に皺を深く刻み深い溜息をついた。

「巽・・・」

 
勢いに任せ屋敷を飛び出たものの、来るときは中禅寺の牛車で来たのだ。帰りの足が無い関口はとぼとぼと歩いて帰途に着く。自宅と京極堂宅とはそれなりに距離がある。夕闇が迫る頃、漸く自分の屋敷に帰り着き、ほう、と安どの溜息を漏らして門を潜ろうとしたときだった。

「あ、あの」

「ひっ!?」

不意に声を掛けられる。吃驚して振り向くと、どこかの貴族の小舎人童(こどねりわらわ)であろう少年が立っていた。

「な、なんで、しょう・・・?」

いぶかしむ関口に

「あの、申し訳ございません、京極堂───中禅寺様のご友人様ですよね?」

「あ、ああそうだけど・・・向こうは知人だって言ってるけど・・・あぁいや、はい」

もごもごと歯切れの悪い返事をする関口に、童が書簡を差し出して言った。

「お願いです、この手紙を中禅寺様に渡して頂きたいのです」

「?中禅寺は自分の屋敷だよ。そちらへ届けたらいいじゃないか」

「いえ、あの、それが・・・受け取って頂けないのです・・・」

「?どうして?」

小舎人童は、非常に言い辛そうに逡巡した後、関口を見上げて言った。

「・・・それが、中禅寺様は・・・姫様からお心を他所に移してしまわれて・・・噂では北の方を娶られるとか・・・」

それを聴いた瞬間、関口は頭が真っ白になった。全身の血がさーっと音を立てて引いて行く。冷や汗が全身から吹き出し、耳ががんがん鐘を突くような音がする。手足の先が痺れていく。

──僕の・・・せいだ。

恐れていた事が起きてしまった、と。関口は目の前が真っ暗になった。

「かれこれ半年も夜離れ(よがれ)が続き、それでもまだ三月前までは文のやり取りだけでも何とかされていた物ですが・・・。今はもう、文すら受け取って頂けなく・・・門を潜ろうとしても舎人(とねり)に追い返されるのです。けれど、どうぞお気持ちだけでも伝えたいと姫が」

「分かったよ、渡せばいいんだね」

小舎人童は嬉しそうに顔を明るくした。関口はその表情を見て必ず渡してあげようと決めた。文箱を受け取とると、小舎人童はお願いしますと何度も頭を下げた。

「ちゃんと渡すから、心配しないで」

関口は小舎人童を帰すと、やはり中禅寺に言ってやらねば、と正義感に燃えつつ屋敷に入った。


目の前には中禅寺宛の文箱。一体どんな姫君から送られてきたのだろう。人様への手紙を勝手に見てはいけないとは分かっては居るが気になる。

中禅寺へ思いを寄せる女性。中禅寺が情を交わしていた相手。

自分へ通うようになって、訪れが無くなり、どれだけ寂しい思いをしていたのだろう。どれだけ悲しい思いをしたのだろうか。自分が女ならばまだ、まだ妻の座を勝ち取ったと思えば良いのだろうが、自分は男だ。男色と言うものが貴族間には行われている事実は知ってはいるが、それでも、妻は大概の者が娶っており、男色は嗜みであると言うのが普通なのだ何故なら家を継ぐ者を産み育てねばならぬからだ。中禅寺のように男を北の方に据える等とは通常有り得ない事なのだ。関口は、何も知らぬこの姫君に、酷く業深い事をしているのだと思うと胸が張り裂けんばかりに苦しくなった。

「ごめんなさい」

箱の蓋を撫でると、胸に痛みが走った。それと共に抗えない程強烈に、文を見たいと言う欲求に駆られる。好奇心ばかりではない、頭の中に、開けて欲しい読んで欲しいと箱の中から声がする。中禅寺へ向けられた姫の念なのか。

次第に侵食してくるその声と胸の痛みに翻弄され、何時しか関口は文箱を開けてその中の手紙を広げていた。

───其処に書かれた文字を目で読んだその瞬間、関口の世界が揺らいだ。

夜の帳が下りた頃、中禅寺は関口の屋敷へやってきた。昼間の事は多少気にはなったが、関口を今後も護る為にはやはり自分の屋敷へ来るように説得しなければならない。

───それに、今更自分の屋敷で一人寝など、余程の事が無い限りしたくない。関口と枕を並べて眠りたい。共寝の後の独りの寂しさを知ってしまった自分は弱い、と苦笑しつつ門をくぐろうとした時、異様な気を感じた。嫌な予感がする。

「───まさか」

眉間に皴が刻まれると同時に鳥口が大慌てですっ飛んできた。

「うへえ!陰陽先生だ!ああ、良かった来て下さった!大変です!先生が!関口先生が!」

「落ち着いて話したまえ」

「よ、様子がおかしくて・・・!いつもの様子がおかしいのとは違うおかしいなんです!!」

屋敷へ上がり、鳥口に案内されて関口の元へ。

「あんまり様子が変なんで、陰陽先生を呼びに行こうと思ってた所なんですよ、ほら、あんな感じなんです」

鳥口が手で指し示した先に居た関口は、胸に文箱を抱きかかえてうつろな表情で柱に凭れ掛かりぶつぶつと何かを呟いている。

「関口君・・・」

中禅寺の声に、関口が反応した。うつろな視線でゆっくりと、関口の視線がこちらを見る。

「あぁ・・・・京極堂様・・漸くお会い出来ました・・・・あぁ・・・口惜しゅうございます・・・・」

口を開く関口に半透明の女が浮き出してきて重なる。同時に鳥口が悲鳴を上げた。どうやら姿が見えたらしい。

「うわあああ!!せ、先生がっ・・!うへぇ!も、物の怪が!!」

腰を抜かしてしまう鳥口。中禅寺は

「鳥口君、君は部屋の外に出て居給え。頼みたい事が有る。まず湯あみ用に湯を沢山沸かして置いてくれ。それと祓い用に塩と酒だ、良いね」

「は、はいっ!!」

と鳥口を部屋の外に出して、関口・・・いや、今は取り憑いた女に向き合った。

「・・・・やはり、貴女ですか。その男に憑り付いても呪詛の意味は無いですよ。いい加減に離しなさい。全く愚かな事を仕出かしましたね。呪詛は大罪という事を知らぬ訳では無いでしょう」

「京極堂・・・中禅寺様・・・」

関口の口から発せられたのは関口の声ではない。関口に取り憑いた女の声だった。

「冷とうございます・・・お慕い申しておりますのに・・・何故お心をお移しに成られたのですか・・・私は・・・わたくしは只・・・」

さめざめと泣く女に向かって中禅寺、いや、陰陽師京極堂はやや困ったような表情を見せた後、扇をぱちりと鳴らした。

「僕に泣き落としは通用しませんよ、姫」

姫と呼ばれた女はびくりと肩を揺らすと啜り泣きを止めて物言いたげに京極堂を見た。それは鳥口等が見たら悲鳴を上げる様な陰の気を纏った視線だった。しかし京極堂は意に介さず白けた様子で女を見、言葉を続けた。

「素人がこんな手を使って恋敵を害するのは感心しませんよ。貴女が取り憑いた関口君なら兎も角、この僕に生半可な呪で通用すると思っているなら随分と見縊られた物です」

一歩、歩を前に進め、京極堂は女の前に座した。

「──実の所、貴女を祓う事など容易い事なのですがね。証拠に、貴女の呪は僕の屋敷の門すら通れなかった。大方、僕が北の方を娶り屋敷を増築している噂を聞いて僕の友人知人の誰かを介してその呪詛文を僕の屋敷に運び込み、北の方に呪を掛ける積もりだったのでしょう」

「・・・っ」

女は目を見開いて京極堂を見る。陰陽師は詰まらなそうな顔をして女の依り代と化した関口を閉じた扇で差し示した。

「姫君。姫君が彼に取り憑けているのは、貴女の力じゃぁありません。何故ならこの屋敷にも僕の結界を施してあるからです。本来ならばこの家の住人に害を及ぼそうとする物には僕の結界が反応し、その場で式神が縛するのですが、この関口君が貴女に同情する余り自ら貴女と同化してしまっているのですよ。彼が強制的に貴女を祓うのを良しとしないから、仕方なくこうして話をしているのです。良いですか姫、この際ですからはっきり言いましょう。僕は貴女を妻にする心算(つもり)は全く有りません。僕なんかよりも貴女は他の殿方と結ばれるべきです」

京極堂の言葉に衝撃を受けたのか、女の姿が揺らぐ。顔を両手で覆い、首を左右に激しく振り拒絶の意志を見せた。

「──私は、貴方の北の方になる妻なのです!そう言われて私は貴方と契り、貴方をお慕いしていたのです!わ、私は他の公達からの文が来ても心を移したりしませんでした・・・なのに何故!」

怒りとも悲しみともつかない慟哭が屋敷に響き渡る。

「事実を歪めないで頂きたい。貴女を北の方に、と言ったのは僕では無い。僕には既に彼が居るのですからそんな不実な事は申しません。申し訳有りませんが貴女の入る場は無いのです。私が娶った北の方は、今貴女が取り憑いているその彼、ですよ」

自嘲気味にも取れる笑みで京極堂は言った。姫は一瞬何を言われたのか分からなかったようだが、意味を理解し目を見開いてから両手を床に付き、力なく首を横に振った。

「・・・・!!う、うそ、この方は殿方・・・冗談にも程があります・・・そんな、そんな世迷い事を申される程に私の事が疎ましいと御思いだったなんて・・・」

京極堂は溜息を吐く。まあそう思われても仕方が無い理由だ。だが事実なのだ。

「姫。僕は事実を歪めたりしません。冗談では無く僕は彼を愛しているのです、ええ、勿論彼は男ですよ」

真っ青になる姫。

「僕は別に衆道の趣味は有りませんがね、彼だけは特別です。僕は彼が振り分け髪の頃からずっと惚れていたのですから」

少し遠くを見る様な表情を見せて続けた。

「昔から縁談を持ち込まれる度にそういう相手が居ると常々断って居たのですが、貴女のお父様は中々退いてはくれませんでしたのでね、一度で良いから姫を見てくれと内裏の、其れも人目の有る所で頼まれては流石の私も一応内裏で働いている以上体面がありますから、貴女には申し訳ないと思いつつ気は乗りませんでしたが屋敷へ訪ねました。不本意でしたが文もそこそこに屋敷に手引きされ、姫は気づいて居られなかったでしょうが監視の乳母まで付けさせるという念の入れ様でしたよ。お父上にしてみれば一度契れば私が姫を気に入るという思惑が有ったようですが・・・私達は契って居りませんよ」

姫は呆然と京極堂の顔を見た。

「え・・・」

「残念ながら貴女を見ても私は彼を忘れる事は出来ませんでした。だから貴女とは<お話>をした後、お父様の部屋へ行きましてね。私を婿にとると、姫が不幸になると<正直に>お父上に申し上げました。<丁寧に>説明しましたらお父上もようやく了承下さいましたよ。それ以降、貴女の元に<他の公達からの文が届く様になった>筈です」

「あ・・・」

記憶を手繰り寄せる。確かに京極堂は自分の元へ来た。契った筈だ・・・そう思っていた。だが、翌々考えれば目が覚めた時彼は傍に居たか記憶が定かでない事に気が付いた。確かな事は京極堂と一夜を過ごした後より、知らない幾人かの公達から文が届くようになった事だ。

「・・・・」

縋る様な姫の視線を憐れみを含んだ目で見ると、諭すように京極堂は語りかけた。

「・・・心苦しいですがね、貴女ほどの姫になりますと自分の気持ちだけでは結婚できないのですよ。所謂<政略結婚>と言うものです。それなりの身分の公達で無いとね。貴女にとって幸運だったのは、貴女のご両親が貴女の幸せもしっかりと考えていてくれたと言う事です。でなければ、貴女は衆道の・・・男の正妻を持つ夫の哀れな側室として生きなければなりませんからね」

姫は震えている。父からはこの男が自分を見初めてやって来たのだと聞かされていた。高名な陰陽師で帝と懇意であり、こんな縁談は又と無いと聞かされ、何の疑いも無く受け入れていたのだろう。

「そ、そんな」

「僕は政治にも出世にも興味がない。別に俗世に大したしがらみも無い。唯一この俗世に僕を引き止めているのは彼の存在だけなのです。その僕にとって上手く行かないのは、彼が僕と同じ想いでは無いという事くらいです・・・。彼は僕を友達で良いと思っている。僕はそれは我慢できない。友情で纏めてしまえば、いずれ彼も妻を娶る。だが僕は彼が他の女の物になると言う事も許せない。もし彼が妻を娶らず出家したら、彼は仏に帰依して僕への情など断ち切ってしまうだろう。だが僕は、仏に取られる事も許せない。そんな男なのです。彼にとっても、僕にとってもそれはある意味地獄です。貴女をそんな苦しみに巻き込みたくは無い。だが、此度の事は貴女の憑き物をしっかりと落とさずに流してしまっていた私の罪でもある。辛かったでしょうね───申し訳ございませんでした」

京極堂はそういうと静かに姫に頭を下げ、平伏した。姫君は、それを見ると涙を流しつつ崩れ落ちた。その姿を哀れに思いつつ見る京極堂。やがて姫は諦めます、と小さく呟いた。

「どうぞお幸せに。今文を熱心に贈られる、菖蒲の紋の君はきっと貴女を幸せにしてくれるでしょう。文にお返事なさいませ」

「・・・でも私は、呪詛という罪を犯してしまいました・・・もう、遅いのです」

項垂れる姫に向かい、京極堂は居住いを正し凛とした声音で言う。

「もう二度とこんな真似はしないことです。それから、菖蒲の君の件は間違いありませんよ。陰陽師たるこの僕が言うのです。大丈夫、此度の事は誰にも知られる事は有りませぬ」

京極堂は初めて姫に向かって優しげに微笑んだ。肩の力が抜けたように姫は深く溜息を吐いた。

「・・・・・・関口様に、申し訳ありませんでしたとお伝え下さい・・・」

姫君は、深々と頭を下げて消えていく。姫の念が抜け、倒れる関口。

「関口君!」

床に倒れた関口を抱きかかえ起こす。気絶はしているが、とりあえず無事なようだ。
直ぐに穢れを払い落とさねばならぬ。鳥口を呼び、湯浴みを手伝わせ関口の身体を清めた。それから寝室まで抱えて連れて行き、寝床に寝かせて鳥口にもう大丈夫だと告げ、食事の用意を頼んだ。その間に式神を呼び屋敷の祓いを行い、呪による穢れを払い落とした。

「全く、この巫祝の力は厄介だな。何より厄介なのが君の馬鹿が付くほど御人好しな性格だよ」

関口を寝かせた部屋に戻り、漸く人心地付いた。柱に凭れ掛かり眠る関口を薄眼でぼんやりと眺めながら腕を組む。彼の巫覡の能力は相当に高い。修業も無しで神降しの能力を保ったまま、この年まで市井に生きている事が奇跡のようなものだ。だが、宮中に関わりを持つようになった今、何でもかんでも憑依させて居ては身が持たぬ。

「う、うぅん・・・」

夜も更けた頃、関口の意識が戻った。人の気配に気づいたのか、寝返りを打って中禅寺の方を見やった。

「あ、あれ・・・僕・・・ここ・・・は」

まだ夢現のような表情でぼんやりと中禅寺の顔を見る。自分から仄かに中禅寺の香りがすると思えば、彼の上着が掛けられていた。彼が掛けてくれたのだろうか。中禅寺は持参した本を読んでいた。

「気が付いたかい。全く世話が焼ける奥さんだよ」

中禅寺は顔を向けずに言う。そこで関口ははっとして起き上がった。いきなり起き上がった所為でくらりと目眩がするが、そんな場合ではない。

「・・・・っ、何で君が此処に!?あ、あぁそうだ僕は君宛の文を預かって」

ふらつき乍らも四つん這いで移動し、慌てて文机の上を探す関口。その様子を気配だけで感じながら中禅寺が言う。

「君が走って帰ってしまったからしょうが無いから僕が来たんじゃないか。しかも君ときたら、僕に宛てた文を勝手に開けて勝手に相手に同情して呪に掛かってしまうんだから困ったものだよ」

関口が探す手を止めて中禅寺の方を振り向いた。

「・・・・だ、だって!君は手紙を持ってきた童を追い返してしまうそうじゃないか!文を受け取りもしないで門前で追い返すなんてあんまりじゃないか!」

「呪の掛かっている文を持った者を諾々と中に入れる馬鹿は居ないだろう」

「呪って、そんな!あの姫は君の事をあんなに思って一生懸命だったのに!」

非難めいた声を上げる関口に漸く顔を上げる中禅寺。

「掛かっただろう君自身が。まさか相手は呪いの対象が男だとは思って居なかったから取り憑かれるだけで済んだが、君が女だったら今頃下手したら命が無いぜ」

「ふ、文は?」

「そんな物箱ごと焼いたよ」

「そ、そんな・・・読んでもやらなかったのかい?せめて読んでやってくれよ・・・君に想いを伝えたくて一生懸命書いたんじゃないか!あんなに一生懸命・・・胸が痛むよ!」

泣きそうな顔の関口を見て中禅寺は眉を顰める。何処まで同調する気だ。見た事も無い赤の他人には其処まで同調出来るのに、何故僕には同調してくれないんだと少々腹も立つ。中禅寺は呆れたような顔をして溜息を吐いて言った。

「やれやれ、何処まで君は性善説の塊なんだろうね。───まあいいさ、文の主と直接会話したんだから態々読む必要はないよ。話は既についた。───そうそう、姫がね、最後に君に申し訳なかったと伝えてくれと言ったよ。今頃は目が覚めているから、ちゃんと自分の相手に返事を書いているだろうよ」

「・・・また、僕は何の役にも立たなかったのか」

関口は床に目を落とし、項垂れた。小さく嗚咽を漏らしている。姫の役に立てなかった事が悔しかったのだろう。

「巽」

中禅寺が本を閉じて関口の側へ来た。

「何でそう思うんだい。君のお陰で、姫は妄執から放たれて相応しい相手と近い内に結ばれる事になるんだ、幸せを祈ってやろうじゃないか。それよりも僕らはどうなるんだろうかね。名実ともに夫婦になった物の、相変わらず君はこんな状態だ。放置されている僕の気持ちはどうなるんだろうか」

「───そ、それ、そん、な、の」

中禅寺はしゃくり上げる関口の背を擦ってやりながら語りかけた。

「なあ、関口君。君が僕の北の方に成りたくない理由は、僕だって分かっているさ。でも。其れでも僕は君が欲しい」

「ちゅ、ちゅうぜん・・・解っているならどうして」

「君が男でも何でも構わないと言っているだろう。僕がいいと言っているんだ」

「僕が良くないよ!」

「なぜ」

「何故って・・・」

「僕は君がどんな姿でも構わないのに、君は僕が男だと言うだけで拒絶するのは、やはり君は僕の事を好いては居ないのだろう?」

「ち、違うよ!拒絶なんてしてないじゃないか!」

擦る手が止まり、手の暖かさが無くなると心が寂しくなる。

「では受け入れてくれるのかい?───ああ、その顔は無理そうだな───済まなかった、帰るよ」

中禅寺は悲しそうに立ち上がると首を横に振り、部屋を出ようと歩きだした。

「ま、まっ、は、話を聞いてくれよ!」

京極堂は慌てて引き止める関口を振り切って歩いていく。

「待ってくれ中禅寺!!」

転びそうになり乍ら、なんとか中禅寺の袖を掴んで追いすがる関口。それを振り払おうとする中禅寺だが、関口は確りと直衣の袖を両手で掴み、中禅寺を見上げた。その関口の目から涙が溢れ出す。がたがたと震える肩を見て中禅寺は振り払うのを止め、関口を見降ろした。

「やっぱり君も、僕を置いていくのか!?ぼ、僕だって、努力して、るのに、」

「心外だな、置いていくも何も僕を拒絶してるのは君じゃないか。僕は君に努力や無理強いさせる位なら───君を思えばこそ離れた方が良いと思うのだがね」

「・・・ッ!・・・ちが、ちがう、そ、そうじゃない、」

「じゃあ何なんだい。はっきり言ってくれよ」

中禅寺の言葉に関口は見捨てられた子供のような気分になる。でも、此処で引いたら中禅寺はもう来ないかも知れない。其れだけは嫌だ。でも、何と言えばいいのか。思いつかない、どう答えればいいのか、嘘はこの男には見抜かれてしまう。胡乱な頭で思考を巡らしても最適解など分かる訳は無かった。

「僕は、僕は・・・っ、───き、君が居ないと眠れないんだ・・・ッ!!一人で眠ると、いつも、怖い夢を見るから・・・で、でも君が添い寝をしてくれると悪夢は見ない、君が一緒に寝てくれてる時だけなんだ、安心して、朝まで眠れるのは、ほ、ほんとだぞ!!だ、だから、ぼ、僕には君が必要なんだよ、中禅寺!!」

一瞬、中禅寺は固まった。そして次の瞬間ぶっと噴出したかと思うと腹を抱えて爆笑する。

「あっははっはっは!!こりゃ傑作だ!!なんだいそりゃあ!?まるで子供じゃないか全く君って奴は!!」

「だ、だって夜中に目が覚めても君が居れば怖くないし・・・っ」

更に大爆笑する中禅寺に涙声で反論する関口。

「だ、だって!!本当の事なんだからっ、しょうがないじゃないか・・・い、いいかよく聞けよ!!ぼ、僕はき、嫌いな奴と共寝なんかしないぞ!!そ、それに、僕だって・・・い、いつ君が居なくなるかって・・・・いつも、ふ、不安なんだ・・・僕は男だから、いつか、君に好きな女(ひと)が出来たら、だ、だから、ぼ、僕は・・・」

聞き取りにくい言葉は威勢が良いが、言っている本人は下を向いて涙をぬぐいながら泣いている。本当に子供のようだ。中禅寺は肩で笑いながら関口を抱きしめた。

「悪かった悪かった。君を試してみたんだ。こうでもしないと君は僕に何も語っちゃくれない。満額回答じゃあなかったが、少なくとも、君に僕は必要だという事は良く分かったよ」

「・・・あ、秋彦・・・」

「関口君。僕こそ本当は不安なのだよ。だから、もっと君の言葉を聞かせてくれないか。不安に思うなら隠さずにそう言ってくれ、君は自分の事を言わなさ過ぎるのだ」

中禅寺は愉快そうに微笑んで額に口付けた。偶には素気無くするのも良いかも知れないと、必死に自分に縋り付いて来る関口を思い出して思っていた。まあ、あまりやると逆に天岩戸に篭られてしまう可能性も高い諸刃の剣だが。一方、関口は戻って来た中禅寺の腕に心の底から安堵していた。

寝屋に戻ってくると、中禅寺は明日の出仕に備えて床に就いた。関口は、絵を仕上げる仕事が残って居るからと言い工房へ向かった。

翌朝、仕上げた作品を乾かしつつ工房で寝てしまった関口を起こさずに中禅寺は出仕した。陰陽寮へ入り、宿直の者が観測していた星辰の観察記録を開いていた。そこへ、小舎人童がやって来て中禅寺宛の文箱ですと置いていった。訝し気に中禅寺が文箱を開けて見れば、中には短冊一枚。お世辞にも綺麗といえない見慣れた字面で書かれた和歌が一首書かれていた。

<はかなくて同じ心になりにしを思ふがごとは思ふらんやぞ>

(貴方の気持ちをきちんと確かめないで心細い気持ちのまま貴方と心を一つにしたけれど、私が貴方を思っている程、貴方は私を思ってくれているのでしょうか)

中禅寺は思わず吹き出していた。

「全く君って奴は・・・・。まさかこの一首を一晩掛けて考えていたのか。いや、しかしこれでは全く初夜の歌じゃないか」

だが関口なりに一生懸命考えた歌なのだろう。自分に捨てられるかもしれない不安をやはりまだ払拭し切れていないのだ。男だから駄目なのだという理由は彼にとって最も当たり障りの無い、そして世間的に通用する、それだけの言い訳だ。本当の所、関口は「自分が捨てられる恐怖」、唯その一点のみを恐れているのだ。彼は信じたくても信じきれない心細さや不安を内包したまま半ば自分に流される儘に妻となった。その気持ちは中禅寺にも良く解っている。それにあの家は今の関口の唯一の自分の領域だ。彼にとっての<柵(現代で言う城)>にも等しい。もう少し大事にしてやらねばと少し反省もした。

あれにとっては、毎夜が初夜なのかもしれぬ。

「───もう少し、吾妹の所へ通うとするか・・・・まるで百夜通いだな、あれが小町で?では通う僕は深草少将かい」

小野小町の元へ百夜通おうとして九十九夜目の雪の夜、小町の元に辿り着くことなく凍死して果てたという公達を思い浮かべ苦笑する。

「───絵面が酷過ぎる。全く、胡乱すぎる男に惚れると苦労するよ」

そんな事を言いつつも日誌を横に避けると一時(いっとき)陰陽師としての職務を中断し、中禅寺は短冊を取り出して返事を待っているだろう妻へ返歌を認(したた)める事にした。心細く思うという事は、自分は必要とされているという事だ。正直、嬉しくも有った。

<侘しさを同じ心と聞くからに我が身をすてて君ぞかなしき>

(この切なくて心細い気持ちが私と貴方、共に同じ心だと聞いたからには最早我が身などどうなっても良いのです。ただ貴方の事が愛おしくてなりません)

中禅寺は文箱に短冊を入れると立ち上がり、陰陽寮から出て使いの者を呼ぶと関口宅に届ける様に頼んだ。使者の背中を見送った後、中禅寺は朝の光に眩し気に目を細めると、静かに踵を返し陰陽寮へ戻って行った。


-十三話・了-
-続-

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