平安朝百鬼夜行

第三話:月と陰陽師と絵師


土手で木場と出会い、帝に引き合わされ、それから数日も経たない内に暇な名ばかりの中流貴族、と言うか自由人である絵師、関口は殿上人として上流貴族の肩書きを一方的に押し付けられた形で、殿中に招聘されていた。着慣れない上級貴族貴族の衣装が却って自分の貧相さを際立たせているようで関口は益々萎縮した。

歌詠み、蹴鞠、風流談義、管弦の宴・・・。ああ厭だ。気が滅入る。
ただ、野原で絵を描いているのが好きなのに幸せなのに。貴族の肩書きなんて、絵さえ描ける程度が有れば良かったのに。

・・・どうしてこんな事に。

皆が貝合わせに興じ、歌を詠むその隅の方で、哀れな絵師はその小さな体を更に小さくして何とかこの時間をやり過ごそうとしていた。

「関口様は歌は詠まれないのですか?」

若い貴族が側へ寄り、話しかけて来た。長い前髪と面白そうに口角を上げた笑顔が軽薄そうな雰囲気を醸し出している。
関口は、いえ、あの・・と口ごもり、

「僕は、その、絵しか描けないので・・・」

と漸くつぶやくので精一杯だった。今日はここに木場の旦那は居ない。庇ってくれそうな人は居ない。

「へえ、絵ですか。そういえば貴方は絵を帝に気に入られてお側へ」

青年貴族は目を細めてへらへらとした顔で関口の顔を覗き込む。目線が合った途端に関口はかぁっと血が上り赤面症を発症し、失語症も引き起こしかけた。

「あ、あの、僕、ちょっと具合が失礼します・・・」

漸くそれだけ言うとおたおたよろよろしつつ立ち上がり、廊下へと逃げた。異変に気づいた周囲の指すような視線を感じる。
誰もが僕を指差して笑う。帝も酔狂な事を、と。何故あんなのを殿中に上げたのかと。

──ああ厭だ、ここから出してくれ。この檻の中から。家に帰りたい。

そう、頭の中で繰り返しつつふらふらと彷徨っていた。
ふと、中庭の風景が目に入った。

「ぁあ・・・」

自然。僅かながら緑や水が自然を模して再現されている。箱庭ではあるが、今の関口の精神には精神の均衡を保つには計り知れない効果があった。
へたり、と渡り廊下に座り込む。
柱に寄り掛かり、ほう、と溜息をついてその景色を眺めていた。不安と恐怖で波打っていた鼓動も漸く治まり、軽く過呼吸になり掛けていた息も落ち着いた。そうやって、暫しの安息に身を委ねていた時だった。

「何をしてるんだい?」

不意に静寂を破り、低いが良く通る声が響いた。

「ひっ!?」

関口は弾かれた様に柱から跳ね起き、声の主を見上げた。其処には、不機嫌そうな顔をした黒い袍(ほう)を着た陰陽師が立っていた。
再び心臓が鼓動を早くし、血が逆流する。緊張のあまり咽喉が閉まり、汗が額に滲んで来る。

「ぁ・・・」

「関口君とか言ったか、どうしたんだねそんな所で」

「あ、あの、ちょ、ちょっと気分が優れなくてそれで・・・」

その後はぱくぱくと口を開けているのがやっとだった。

「・・・・ぁあ、貴族のお遊びに耐え切れなくなって逃げてきたのか」

口の端を吊り上げて見下ろしつつ言う。丸で馬鹿にされているように関口は感じた。男の口は止まらない。

「一応元中流とはいえそれなりの嗜みは有る筈なんだがねぇ、まあ君なんぞは見ただけで雅とは程遠い世界に居るという事くらいは誰が見てもわかる、皆大して期待もしていないから心配しなくとも良いよ」

「う、うぅ・・」

汗を滝のように流し、真っ赤になって俯く。しかし何故この男にこんな事を言われなければならないのか、捨て置いてくれれば良い物を。
一々貶めないと気が済まないのか。理不尽さについ口が動く。

「僕だって好きでこんな所に来たわけじゃない・・・」

「じゃあ帰りたまえよ」

男の答えはあっさりと切り捨てる様に帰ってきた。

「だ、だってそんなこと」

「君が嫌だと固辞すれば済む話だろ」

「すまないよ!」

「君が本気で嫌がってるなら無理強いはしないさ。流されて此処に来たのも自分の意思表示だろう?人の所為にはしない事だ」

「くっ・・・うぅ・・・」

この男には分からないのだ、どれだけ階級と言うものが自分達にとって脅威であるかという事を。まして自分には、断るすべもないことを。
全く住む世界の違う人間には、何を言っても届くはすが無いのだ。震える手を握り締め、関口は唇を噛み締めて項垂れた。
俯いて押し黙ってしまった関口を見て、黒衣の陰陽師は眉間に皺を刻んだ。

「・・・まったく、頭が働かないと言うか・・・情けないな君は」

溜息をついて、続ける。

「貴族のお遊びに無理をして付き合うことは無いんだよ。君ならほら画材道具でも抱えて適当に絵でも描いて時間を潰していれば、誰も見咎めたりしないさ」

「・・・え・・・」

その言葉に関口は目の前の暗闇から引き戻された。

「君は絵師として此処に雇われているんだ。帝に按摩を命令されるのはまあ別件だから置いておくとしても本分として絵を描いているのに、誰が文句を言うかい?君は何者だ?絵師なんだろう?」

「ぁ、・・・うん、僕は・・・」

一条の光を感じて、関口は彼を見上げた。相変わらずの仏頂面は不機嫌そうに僕を見下ろしている。
今にも角が、牙が生えそうな、まさに鬼のような凶相だ。でも、今はその彼の言葉が天上の蓮池から地獄に降りて来た蜘蛛の糸の様に思え、またその凶悪な人相も憤怒の相で人を救済すると云う明王か何かにも思えた。

「ありがとうございます・・・その、京極堂様・・・」

仏に縋る様な心持ちで礼を伸べたが、その明王の答えは至極淡々と必要以上の加護をくれる事は無かった。

「礼を言われる筋合いは無いよ、君が其処に居ると鬱の気がこの辺一体に蔓延して良くないからね」

「・・・・うぅ」

「分かったらもう行き給え。此処は陰陽寮だ、君の来る所ではない」

は、と気が付いて改めて顔を上げる。ああ、いつの間にか僕は管轄の違うところへ迷い込んでしまったのか。それなら悪いのは僕の方じゃないか。
陰陽寮には国の機密となる文物が保管されていると聞く。そんな所に許可無く一介の絵師が入り込めば叩き出されて島流しにされても文句は言えない。

「あの、済みませんでした・・・」

急いでこの場を離れようと慌てながらも傍目にはよろよろと立ち上がり、関口は一礼をしてその場を辞した。


「・・・・」

その場に残った黒い陰陽師は深く溜息をついた。先ほどの関口の、涙が零れそうな大きな瞳を思い出す。

「泣くほど、この宮中が厭なのか・・・君のような幸運な人間はそうは居ないのに」

皆、その地位を欲しがり裏ではどんな汚い事をしているか分からない。見えないところで足を引っ張りあい、騙しあい、呪いあっているのだ。
この宮中では。帝の地位を狙い、命を狙う者も居ない訳ではないのだ。それを未然に防ぐ為に陰陽師は裏で帝に掛けられた呪詛を極秘裏に阻止する事もある。
そしてまた、やんごとなき貴族から、他の貴族に対し、言うのを憚れる依頼も、また来るのだ。それなのにあの男はたった一枚の絵で帝の興味を引き、その風貌と態度が甚く帝に気に入られ、その御側絵師となった。この幸運を利用して権勢への足掛りに出来るやも知れぬのに。
そこまで考えて、自分が酷く権力という物に毒されて居ると気づいた。自分自身は、権力という物には興味は無い。だが、周囲の世界に自分を調和させて居るのは事実であり、その彼らの欲望を陰陽師として些細ながらも飯の種にして居るのも事実なのだ。

『好きでこんな所に来たわけじゃない・・・』

陰陽師は絵師の去った廊下の先を見つめて、再び深く溜息をついた。

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満月が、その日は昇ろうとしていた。
今宵は観月の宴だ。
貴族達がこぞって歌や、管弦の遊び、舟遊びなどに興じるのだ。水面に映る月を愛で、歌を詠み杯に月を映して楽しむ。
夜の闇を恐れる都人にとっては、この宴に興じつつ夜を明かす行事は楽しみな物であった。
しかし・・・。この関口巽という絵師にとっては、そんな物は苦痛でしかなかった。

「・・・観月の宴の絵を描けって・・・はぁ・・・というか、皆の前で一首詠めとか・・・虐めだよ・・・」

渡り廊下にぽてり、と座り込んで上がり掛けている満月を見る。すでに宴は始まり、帝も出席なさっている様だ。帝からの
「歌を詠む猿になれ」という命は最初冗談かと思った。本気だと解って卒倒しかけたが辞退する事も出来ずに結局歌を捻り出す為に此処に来たのだった。
此処はあまり人が来ない一角であり、関口にとっては安心して時間を潰せる場所だった。このまま終るまでじっとしてたい様な気もしたが、あの帝が絶対探しに来るだろう。
そして大笑いされながら皆の前に引きずり出されて・・・。胸が苦しくて眩暈がした。

この場所から引きずり出される位なら、せめて自分で行った方が幾らかマシかも知れぬ。
此処を知られたら、多分あの帝は何か有れば此処に直ぐに遣ってくる。やりかねない。猿の隠れ家を見つけたと大喜びで自分もやってくるだろう。
そしたら此処で大の字になって日がな一日寝てるに違いない。それだけは厭だ。ならば、と死罪を覚悟した咎人のように自ら衆人の目に晒される事を選ぶ事を決めた。

「・・・・」

月を見上げる。淡く輝く満月は、煌々と誰分け隔てなく地上を照らしている。静かな月の光は気持ちを癒してくれる。

『月読の 光りに来ませ あしひきの 山きへなりて 遠からなくに』
(月の光を頼りに私の元へ来て下さい。山で隔てて遠いという訳では無いのですから)

「・・・・うーん、柄にも無いなあ・・・僕が詠んだら笑われそうだ・・・」

ちょっと古い歌を引用してみたのだが・・・なんだか恥ずかしいと思った。

「そうかい?」

背後から良く通る声。

「ひゃああっ!!?」

関口はその声に死ぬほど驚いて腰を抜かした。

「で、でた、でた、、っ!?」

腰が抜けているので柱にしがみつき、助けを呼ぶ声も出せず、目を硬く閉じて恐怖に諤諤震える。

「おいおい、そんなに吃驚すること無いだろう、関口君。君の注意力が散漫だっただけじゃないか」

不機嫌な声色が混じる。名前を呼ばれて我に返りつつも恐る恐る顔を上げると、其処には黒衣の陰陽師が居た。

「え、あ、きょ、京極堂・・・さま・・・」

「今日は此処で隠れているのかい?そんなだから梅雨でも無いのにじめじめして黴が生えるなどと言われるのだ」

「い、いえ・・・歌を作ったら・・・行くつもりです・・・此処にいても、見つかってしまうから、いやもう見つかってしまったから」

目を伏せて答える。京極堂は片眉を吊り上げて語気に非難めいた調子を乗せて返す。

「僕は君がここに居る事に興味は無いし、あの馬鹿げた帝に付き合ってお貴族恒例の歌詠み合戦に出る心算も無いからね。僕が黙っていれば君の秘密の場所がばれる事はないだろう」

「・・・・そ、そう・・・」

安堵の表情で陰陽師を見上げる。けれど、自分が行かなくてはならないのはどうしようも無い。再び暗鬱とした面持ちで目を短冊へ落とす。その様子を見て、陰陽師は

「此処で興の乗る歌の一首でも披露すれば、皆見直すだろうに」

と口の端を上げて言った。

「そ、そんな事・・・出来ないよ・・・僕は・・・」

「全く鬱々としているねぇ・・・今の歌は万葉集からの引用だろう?古人の歌であろうともその場に沿った歌を引き出せる、そういう技量が有ると思わせれば、知識豊富だと見直されるだろうに」

「人前に出るのがどうしても苦手なんだ、人の目が怖い。こればかりはどうしようもないんだよ」

赤くなって両腕で自分を抱きしめる。ますます小さく縮こまったように見える。凍える小さな子供に見えた。京極堂は溜息をついて言った。

「しょうがないなあ、僕が一つ呪(まじな)いをかけてやろう」

「・・・え?」

「今夜一晩、君が人前でも上がらないようにさ」

「ほ、本当ですか・・・?」

「安心したまえ、呪(しゅ)は本分だよ」

縋る様な瞳で見上げる関口を、どこかほって置けなくなっていた。子犬のような目で見上げられ、京極堂はどきりと鼓動が昂ぶる。

──何故胸が騒ぐ。こんな草臥れただらしの無い僕を見て怯えるような失礼な男を僕が相手をする必要は無いのだ。それなのに放って置けないと胸が騒ぐ。一体何なのだこの男は。

しかしあくまでも冷静な態度は崩さず、いつもの調子で続けた。

「手を出してごらん」

関口がおずおず手を出すと何事か呟きつつ汗ばんだ掌に墨で何か文様を書いた。

「ホントに汗っかきだなぁ。でもまぁ大丈夫だ。退出するまでぐっと握っておくが良い」

そういって、手を握らせた。

「う、うん・・・その、ありがとう・・・あ、ありがとう、ございます」

関口は頬を赤く染めて礼を言う。月明かりの中、黒目がちの瞳に月の光が輝き、潤んでいるように見える。
安堵したような表情に、目が離せなかった。しかし直ぐに関口は目を逸らし俯いてしまう。それが何故だか残念に思えた。中禅寺は己の中に湧き上がる奇妙な感情に思案していた。何なのだろうかこの去来する物は。

「・・・・」

だが京極堂は思案するのを止め、目を閉じてやれやれ、と言うと立ち上がり、

「では、僕は帰るよ」と立ち去った。振り向けばまた言葉を掛けてしまう。心が乱れるだけだと思い振り向かずにそのまま歩いた。

「う、うん、本当にありがとうございました」

立ち去る陰陽師に関口も慌てて立ちあがり、握った手を振って京極堂を見送る。そして関口も、月を見上げると宴の会場へと意を決して歩き出した。

-続-

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