平安朝百鬼夜行
第五話:方違え
とぼとぼと一条を歩く関口。観月の宴の昨夜は結局内裏に拘束される事になったので迎えの牛車は帰らせた。 帝の宣言により仮にも上級貴族となった関口だが、位だけ貰った所で人間が変わる訳ではない。相変わらず草臥れた様子でこの貧相な男が道を一人トボトボと歩く様は到底帝と懇意な人間だとは誰も想像できないであろう。何とも物悲しいものである。 しかし以外にも当の本人は心中穏やかであった。何しろ、久方ぶりの外歩きである。 市井の絵師(とはいえ一応元中流貴族ではある)として筆を取っていた頃は、あちらこちら自分で歩いて目に留まったものを写生していた物であるから、こうやって季節の空気に触れながら界隈を歩く事が多かったのだ。 「久し振りだなあ・・・何か描いて帰ろうかなあ、うん、せっかく外に居るんだしそうしよう」 陰陽師に急いで帰って方違えをしろと言われた事など、もう別にどうでも良かった。 二条へ行けなど言われても、其処に屋敷が有るわけでもない。行ってそこらの神社か寺にでも詣でろという事なのだろうが、それなら別に今急いで行かなくても良いかというように考えたのである。 少し宮中から離れれば、葦が茂る場所があったり、秋の花が咲く野原が咲くような場所もある。 堀川沿いに気分良く歩き、萩の花が咲いているのを見て筆を取り出して絵を描き始めた。・・・が。 「・・・・関口君。やっぱり道草を食っていたな」 背後から地獄の使者のような声が降ってきた。 「ひぃ!!?」 竦み上がって腰を抜かし、思わず墨壷をひっくり返す。あたふたしつつも恐る恐る背後を振り向くと、陰陽師──京極堂が立っていた。 「あ、ぇ、えあ、あ、きょ、きょ・・・ご」 「直ぐに家に帰ってから、方違えをしろと言ったろう?僕の話を聞いてなかったのかい」 「あ、う、うん・・・ちゃ、ちゃんと聞いていたよ・・・」 「へえ。それなのに何でこんな所で絵を描いているんだい、まさか君はたった一晩帝の寝所に居ただけで自分の家の場所を忘れてしまったとか言わないだろうね?それほどあの帝が良かったのかい?昨夜は随分親密だったようだしねぇ。あんなに宮中に居るのが厭だと泣いていたのにいざ帰るとなったら惜しくて帰れなくなったのかい?」 半分以上京極堂の嫌味である。今朝、帝の寝所で見た光景が思い返されて苛苛するのだ。帝と関口の間に昨夜何も無かったのは分かっているが、どうにもあの光景を思い返す度に苛苛する。さっさと帰れと言ったのにこの男は自分の言う事など気にも留めないで写生なんぞしているのだからむかつく事この上無い。 「ち、違うよ!ぼ、僕は・・ただ・・・」 「ただ?」 「外をこうやって歩くのが久し振りだったから・・・前はいつも、こうしてたから・・・うぅ・・」 目に涙が溜まって零れそうになるのを俯いて指でぬぐう。元服を終えた一端の公達の態度ではない。 「家に帰りたいと思ってたのは・・・ほんとだよ・・・」 「そうかい」 まるで子供だな、と、京極堂は溜息をついた。これ以上苛めたら本当に泣いてしまうだろう。 「とはいえ、このまま君を放って置いたら夜になってしまうまで絵を描き続けてるだろう。夜盗にでも襲われて何か有ったら帝に面目が立たないから、家まで送ってやろう」 乗りたまえ、と牛車を指差した。 「あ、う、うぅん、歩いて帰れるよ・・・」 「歩いて帰らせたらまた道草を食うだろう?君の胡乱な記憶力で僕の言った事を覚えているとは到底思えないからね。さあ乗った乗った」 苛とした口調で関口をせかす。仕方なく、関口は道具を片付け牛車に乗り込んだ。 「あの、すみません、ほんとに・・・」 何とかやっとの思いで口を開いて詫びを入れる。しかし陰陽師の答えはにべも無かった。 「謝るなら最初からさっさと家に帰って欲しかったよ」 「うぅ・・・」 再び俯いてしまう関口。鼻がツンとし、目頭から熱い物が零れでそうだった。 「・・・泣かないでくれ給え」 不意に掛けられた京極堂の言葉に、思わず顔を上げる。涙を湛えて、大きな瞳から零れ落ちそうだ。陰陽師はそれを見て思わず眉を顰める。怒られる、と思った関口は慌てて袖で涙をぬぐって、また俯いた。 「・・・僕がそんなに怖いかね?」 「え?い、いえ、そんな・・・そんな、ことは」 「じゃあ何故いつも僕を見て怯えるんだ?僕は君に対して確かに苦言は吐くが、榎さんのように虐めたりはしていないと思うんだがね」 「・・・すみません・・・」 「答えになってないじゃないか」 ますます身を竦ませてしまう。その様子を見てまた眉間の皺が増える。 「・・・その、いつも、そうやってぼ、僕を睨むから、怒られてるみたいに・・・感じて」 「僕の顔が怖いのか」 「そ、そん、そんな・・・」 「そりゃえのさんみたいにお綺麗な顔はしていないが、そんなに怯える様な顔かい」 般若もかくやと言う表情で京極堂は黙ってしまった。確かに、心当たりが無いわけではない。榎木津にも、木場にも同僚にも、そう言われていた事を思い出した。やはり、必要以上に怒っているように見えるのだろうか。眉間の皺を押さえて、ひそかに溜息をついた。 「あの、本当にすみません・・・」 「良いんだ。君が怯える理由が分かればそれで良い」 「・・・」 「だが、今後も顔を合わせる事になるだろう、僕は顔を変えるつもりは無いからね。君が早い所慣れてくれ」 ニヤ、と口角を上げる。怖い。凶悪だ。 「は、はぁ・・・」 関口は怯えつつも何とか返事をした。そんな関口に、京極堂は嫌に軽い調子で言う。 「おおそうだ、慣れる為に暫く一緒に行動しようじゃないか、どうせ君は物忌みで内裏に暫く行く必要は無い」 「・・・・ぇ?」 「まずは君の家だ。自分の屋敷なら安心だろう?君の作品も見たいしね。なんだかんだで僕はまだ先生の作品をじっくり拝見した事が無いからね。お邪魔するよ、関口先生」 「ええぇ・・・っ!?」 「何だね、厭なのかい?」 声音に剣が混じる。慌てて関口は弁解した。 「そ、そんなことはっ・・・な、無いです・・・ど、どうぞ狭い家ですが・・・」 「そうかい、安心したよ。じゃあ僕は客人だ。君が笑顔でもてなしてくれるのを楽しみにしているよ」 「は、はい・・」 関口は、予定していた心安らぐ物忌がこの瞬間打ち砕かれた事を確信した。 「・・・どうぞ・・・」 木戸を開けて中へと客人を招き入れる。 こじんまりした邸宅は、その館の主を表しているような如何にもこじんまりとして飾り気の無い別段褒める所も無い邸宅だった。ただ、庭の彼方此方で纏まって咲いている白と青の桔梗が目を引いた。 「鳥口君、お客様だ宜しく頼むよ」 「うへぇ!珍しいですね先生!ちょっとお酒でも買って来ましょう!」 鳥口と呼ばれた少年は自分達より五歳位年下のような感じがする。使用人だろうか、と京極堂は思った。 「ああ、頼むよ」 「お座敷にお通しして置いて下さい、干菓子が棚に有りますよ」 「うん」 しかし主に対して随分と態度が大きい。それを許しているのは関口の人徳なのだろうか。関口に案内され、これまたこじんまりとした座敷に通される。 「適当に寛いでいて下さい」 そう言うと、関口は一旦下がって行った。縁側に面した庭がよく見える所に腰を下ろし、庭の桔梗を眺める。関口が植えたのだろうか。そう思い、何気なく和む。ふと視線を動かし庭の奥を見ると、庭石の回りに彼岸花が咲いていた。其処だけ切り取った様に鮮烈な赤が映える。一瞬、この庭には──この屋敷の主には似つかわしくないなと思った。 「すみません、お酒が来るまで麦湯(麦茶)で・・・」 「ああ、構わないよ」 ことり、と卓に麦湯の入った碗と干菓子の入った碗が置かれる。それから関口は中腰でうろうろと卓を往復した。どこに座るか、迷っているようだ。 「おい、ここは君の家だろう。そんな中腰でうろうろされると客の僕が落ち着かないんだが」 「あ、う、うん」 「しょうがないなぁ、此処に座りたまえよ」 指差したのは京極堂の正面。まあ、正面に座るのが普通と言えば普通なのだが。関口は気が小さいのと視線を真正面から受けるのを避けるため、大体斜め前に座りたがるのだ。 「あ、あぁ、うん・・・」 しかし指定されてしまったのでやむなく腰を下ろす。猫背で縮こまり上目遣いに京極堂を見る。丸で親に説教を受けている悪戯した子供だった。 「なんだい」 「え、ううん、その、麦湯どうぞ・・・その、干菓子も」 最後の方はごにょごにょした発音になっていたが、京極堂には聞き取れたらしく 「ああ、頂くよ」 と遠慮なく湯を飲んだ。目の前にはかちこちに固まっている関口。京極堂は宥める様に言う。 「・・・・怖がらなくて良いよ・・・僕は別に説教をしに来た訳じゃない」 「あ、は、はい・・・その、京極堂さま・・・」 「様は要らない」 「い、いえしかし・・・それは」 「位が僕の方がやや上だからかい?摂政関白ならともかく、陰陽師何ざ学者だ。学者に位が有ったってそれで知識が増えるわけじゃない。位なんて便宜上付いているだけさ。ましてや君は帝のお気に入りときている。むしろ、恭しくご機嫌を取らねばならないのは、僕の方なんだぜ?」 「そッ、そんな、止めて下さいッ、冗談にしても恐れ多い・・・ッ」 怯えあがって即否定する。 「ですから私の事は呼び捨てで良いのでございますよ、関口さま?」 「や、止めて下さい・・・」 「じゃあ関口先生?」 「そ、それも」 「じゃあ関口君」 「・・・・はい」 「じゃあ君も呼んでくれ給え」 「・・・・ッ」 「早く」 「きょ、きょう、きょうごくど・・・う・・・」 「今声を出さずに『さま』と言ったろう、言い直しだ」 「ひっ・・・」 「早く」 「きょ、京極堂・・・ッ」 「なんだい?」 「ぇ?」 問い返され、きょとん、として京極堂を見る関口。大きな瞳が零れ落ちそうだ。それを見て京極堂は噴出した。 「わははははっ!!本当に胡乱だな君は!いや、悪かったよ冗談だ!」 「な、なんなんですか一体ッ!」 真っ赤になって怒る。何だ、一人前に怒る時はちゃんと怒れるじゃないか、と京極堂は思った。本来はもっと真っ直ぐに自分の意思を出せる性格だった筈なんだろう。しかし、何らかの原因で人や、人の視線を恐れる様になってしまったのだろうか・・・。普段は禄に目を合わせようとしない関口の顔をまともに見る機会は珍しい。僅かに残る無精髭を除けば、下がり気味の眉と黒目がちの睫の長い瞳は未だ幼さを際立たせる。怒った時、一瞬真っ直ぐに自分を見たが・・・その表情が・・・自分の記憶の中の少年に重なる。一瞬鼓動がどくりと音を立てた。 「──敬語はよせよ。僕らは同僚だ。普通に話してくれれば良いんだ。僕は学者で君は絵師だ。縦横の繋がりの範疇ではない」 「あ、う、うん」 はっとしたように我に返り直に何時ものおどおどした関口に戻って俯く。それを見て陰陽師は残念に思った。もう一度見たい、と思った。 「まあ、呪い師でも有るが、その辺は君とは関係の無い部分だから気にしないで良い」 「あ、うん・・・」 関口はいつもの様におずおずと顔を上げる。その様子に京極堂は苦笑する。 「・・・あの」 関口が戸惑いがちに声を掛けた。 「なんだい?」 「昨日はその、ありがとう」 「何が?」 「あ、あの呪(まじな)い・・・」 「ああ」 「おかげで、何とかなったよ」 「そうかい、それは良かった」 京極堂が少し微笑んで返すとほっとした様に、関口の表情が緩んだ。京極堂はその表情を見逃さず、内心機嫌を良くした。 「お礼、したいんだけど」 満面の笑顔と言う訳ではないが、緊張が解れた様な照れたような表情。 「別に礼には及ばないよ」 その表情だけで、十分だと内心思っていた。礼よりもその表情をもっと自分に見せて欲しいと思う。 「え、でもそういう訳には・・・」 「礼をしたいならしてくれても構わないんだけどね。僕は高いよ?」 「・・・ぇっ・・・」 焦っておろおろする関口。自分の持ち合わせで支払いが出来るだろうかと考えているのだろう。関口に金を払わせる心算は毛頭無い。そもそも、見かねて頼まれもしていないのに助け舟を出したのは自分だ。これで金を取ったら押し売りである。しかし、関口に恩を売っておく事は悪くない。己の心象を良くし、彼に関わる取っ掛かりは常に確保しておきたかった。 「まあ、今回はお近づきの印という事にして置くよ」 「う、うん・・・」 関口は心配そうに上目遣いに見上げながら頷いた。後で何か言われるのかも知れないと思っているのだろうか。単純な割には疑り深い男だなと内心苦笑する。 「今度、そうだな絵でも描いてもらおう」 「あ、うん、それなら喜んで」 何か返す事で安心出来るのならと彼の絵を所望すると、それなら自分に出来そうだと安心した関口のまるで子犬のような表情に、京極堂は目を離せなかった。視線に耐えられず目を離したのはやはり関口で。 「そ、そんなに見ないでくれ・・・うぅ」 「馬鹿だな君は。美しい姫君なら兎も角、君みたいな赤ら顔の草臥れた男なんか見たって楽しいものか。自意識過剰なんじゃないか?君」 「そ、そんな・・・」 意地悪だとは自分でも思うが、つい口が過ぎてしまう。関口が自意識過剰だといわれ真っ赤になってもごもごと口ごもった所で、彼にとっては助け舟が現れた。 「先生、お酒買って来ましたよ!」 先ほど酒を買いに行った鳥口だった。ひょっこりと座敷に顔を出して京極堂を見ると「あ、いらっしゃいませ!」と屈託なく言う。酒を卓の上に置き、 「いやあ、先生の所にお客人なんて明日は雨ですかねぇ」 と軽口を叩く。関口はちょっと唇を尖らせて 「た、たまには・・・あるだろ」 と反論した。見栄を張ったらしい。実の所客人が来る事は滅多に無いんだろうと京極堂は笑いを噛み殺した。 「そろそろ牛飼い童に先生をお迎えに行かせようかと思ってた所ですよ。擦れ違わなくて良かったです」 鳥口は酒とつまみの干菓子を置きつつ言う。 「うん、済まないね。そうそう、今日から僕は物忌なんだよ。こちらは陰陽師の京極堂・・・帝の御友人でもある。失礼の無いように」 すでに主である関口を含め十分階級の上のものに対しては失礼なのだが、関口も鳥口本人も気にしていないようだ。 「うへぇ、外出禁止ですか!まあ、先生は引き篭もりは慣れてるからどうって事無いでしょう・・・って、うへぇ、陰陽博士!?帝の御友人って、そんな偉い方がこの屋敷に!?こりゃあ干菓子じゃいけませんね!何か作ってきます!!」 膝を叩き勢いよく立ち上がるとパタパタと台所へ走って行った。 「もー、鳥口君てば・・・」 呆れたようにその背中に向かって零す関口。 「鳥口君?彼は何者だい?従者にしては主に対する態度が横柄なようだが」 「ああ、彼は僕の親類の子でね。やはり絵を志して家を飛び出してきたんだよ。一応弟子、と言う形では有るけど、僕は弟子を取るような大それたものでもないから・・・好きにさせてる」 「ふうん」 「弟みたいなものかな。でも家の事とか色々助かってるよ」 と付け加えた。それから 「ちょっとお調子者だけどね」 と、愛おしむ様な表情を見せ、くすっと笑った。 「なるほどね」 この二人の間には血縁と言う絆が有るうえに元服したばかりのまだ若輩とは言え、この関口が心を許しているのかと思うと、どうしてだか遣る瀬無い気分になった。やっと見せた笑顔らしい笑顔。それは自分に向けられたものではない。それが、更に遣る瀬無い。 ──馬鹿だな、何だってこんな男の態度に一喜一憂しているんだ。どうでも良い事じゃないか。 そう思いつつも、側に居れば居るほど、関口の事が知りたいと思う自分が居る。其れは否定しようが無かった。 「所で、あの」 関口の問いが京極堂の思考を戻した。 「なんだい?」 「あの、一旦家に戻って、その二条へ行くって話・・・。そろそろ行った方が良いのかなって」 「・・・・あぁ」 「準備して来るよ、君は飲んでいて」 と、立ち上がりかける。 「良いよ、もう」 「・・・は?」 「何の為に僕が来たと思ってるんだい?」 「・・・え?」 関口には全く分からない。中腰の姿勢で固まった関口に、京極堂は酒を飲み干しながら答えた。 「君の目の前にいる人間は誰だと言うんだい全く、君の方違えなら僕が処理しておいたよ」 「・・・え、いつ、のま、に」 「さあね。それは教えられないな、秘密だ」 「そ、そうなんだ・・・さすが陰陽師だね」 「ふん。君のその胡乱な記憶力では、陰陽師がどんな者かも理解してないんだろうねぇ?表では暦を読み天の動きを察知し世の理を統べ、悪鬼悪霊を調伏し退散、裏では呪いで政敵を闇に葬り、権力の裏で僕らは引く手数多だ。貴族が僕らに依頼するのは夢占い位だと君は思っているかも知れないが、貴族達にとって僕ら陰陽師は無くてはならぬ者なのだぜ」 「はぁ・・・すごいんだねぇ。あ、そ、そんな忙しい方の手を煩わせて仕舞って・・・す、すみません」 何とも気の抜けた返事である。その上関口は素で謝った。毒気を抜かれた所に関口が麦湯をお代わりしようと碗を持ち上げつつ言った。関口は余り酒を飲まない。酒に弱く直ぐ眠ってしまうのだ。自分の家であるのに今酒を飲まぬのは客人に無礼が有っては成らぬと自制しているのかも知れぬ。 「あ、あぁ・・・でもね。人を呪うと自分に返ってくるって、昔聞いた事があるよ。誰だったかなあ。思い出せないや。えと、だから、出来るなら悪く呪うのは止めた方が良いと思うんだ」 「──桔梗丸」 その瞬間、京極堂の脳裏には記憶の中の少年の姿が浮かび、それと共に沸き起こる感情が目の前の視界にいるこの男と重なっていく。胸が熱くなり、鼓動を打つ。関口から目を離せないまま無意識にその少年の名を呟いていた。 「え?」 麦湯を継ぎ足していた関口にはその京極堂の呟きは聞こえなかった様だが、顔を上げて見れば京極堂が何とも言えない恐ろしい表情になったのに気が付いて慌てた。 「あ、あのっ、ああっ、あっ、ご、ごめんその君の仕事に何か問題が有るとか、そ、そういうつもりで言ったんじゃないんだ、た、ただぼ、僕は・・・ッ」 関口は真っ赤になってあたふたしながら弁解する。京極堂にはそんな事は分かっていた。関口に何の落ち度も無い。だが、自分が探し続けているあの少年──桔梗丸と関口が重なった心象の所為で今は感情が乱れている。此の儘では抑制が効かなくなるやも知れぬ。関口の声が、彼が言葉を放つ度に自分の中の血を逆流させ、芯が熱くなって行く。 「すまない、帰らせてもらうよ」 断ち切る様に呼吸をすばやく整えると立ち上がり、 「干菓子、ご馳走様。君の持て成しにしては良かったよ」 と一言残して振り向く事無く足早に帰っていく。 「あ、あのご、ごめん、あの、京極堂・・・っ!?」 京極堂の態度の急変に自分が何かしでかしたのかと追いすがろうとする関口だったが、足が縺れて転んでしまい、結局玄関へ着いた時には牛車が動き始めてしまっていた。 「・・・・ど、どうして・・・?」 訳が分からないまま関口は力なく崩折れて、去っていく牛車を見つめていた。 「あれぇ、陰陽先生帰っちゃったんですかぁ?」 台所から鳥口の素っ頓狂な声がしたが、関口は黙って自室へ引っ込んでしまった。 |
-続- |
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