平安朝百鬼夜行

第六話:記憶の欠片


「あああああー!退屈だっ!やいこの真っ黒鴉!!僕の猿はいつ来るんだぁ!」

清涼殿、昼御座(ひのおまし)。今上帝榎木津が畳御座の上で大の字でじたばたしながらごねている。

「心配しなくても、後三日もすれば忌が明けますから参内しますよ」

控えるように一段下の眉間に皺を刻んで陰陽師は苦々しく言った。関口の一言に自分を抑制できず彼の家から逃げるようにして帰ったのは一昨日の事。
全く自分らしくない態度だったと自分に腹立たしく思いつつも、自分に向けられた関口の声、表情、姿にあの時自分を抑えられる自信がなかった。内奥から湧き上がる焦燥感にも似た枯渇感。冷静になれば分かる事だ。其の感情こそが──。

──どれだけあの男に乱されれば良いのだ。

自嘲気味に小さく舌打ちをする。

「何だ!自分だけちゃっかり猿君と会ってるじゃないか!!」

榎木津がそんな京極堂を半眼で見た後起き上がって怒鳴った。記憶を見たらしい。全く厄介な能力だ。

「ああっ!貴様猿君の家に行ったなッ!!」

「方違えの祓いをしに行っただけですよ」

憮然と返す京極堂の顔を見て、榎木津が何かに気がついたように言った。

「・・・桔梗」

「え?」

「おお、お前の大事な子だ!桔梗を抱えた猿君に似たちっこい子。お前が探している子だろう?なんだそれはっ!君が描いたのか!?あはは、可愛い絵だな!!それにしても、見つからないなぁ、その子は」

どきん、と心臓が跳ねた。遠い記憶が蘇る。十年経とうとも消す事の出来無い想い。

「・・・桔梗丸です。探索を頼んでいるんですから探す相手の名くらい好い加減覚えて下さい」

榎木津には視えている。遠い昔、自分が出会ったあの少年。榎木津がまだ東宮であった頃、貴族達の間で勢力争いが起こり次期天皇を誰にするかで都が揺れた事が有る。中禅寺は彼の不思議な力の噂を聞き、実際に会ってそれを確かめた後、変わり者だと有名だった榎木津に付く代わりに桔梗丸を探して欲しいと頼んだ。榎木津は了承し、各地へ桔梗丸の行方を捜すように手配したが、京に戻って以降、彼の足取りは神隠しに遭った様にふっつりと消息が途絶えてしまったのだった。彼の実家らしきいくつかの貴族の候補が挙がったが、みな既に零落し、家人は都を捨て、須磨や明石、安芸あるいは陸奥へ散り散りに流れて行ったらしい。京に残された屋敷たちは今はもう誰も住む事無く荒野であった。中禅寺は榎木津から教えられたいくつかの邸宅跡へ足を運んだ事が有るが、無情にも荒れ果てた惨状に、只立ち尽くすだけであった。しかし、今思えば関口という苗字は無かった。有れば直ぐに思い出すはずだ。やはり違うのか、それともまだたどり着いていない別の貴族なのか。

「ふふ。何時も可愛い子だなぁ。子犬みたいだ。関猿に似てるけど、関猿は草臥れちゃってるからなあ!桔梗というよりは昼の朝顔だ!よれよれ猿!」

榎木津の声に我に返り、

「・・・帝、関口君は」

言いかけた京極堂の言葉を帝の叫びが遮った。

「あー、それにしてもぉー退屈だぁー!!木場修は夜警で昼間は寝てるから詰まんないのだ!!木場木場木場木場碁盤男!」

「帝としての仕事は幾らでも有りますよ」

「今日はヤル気が起きない!物忌みだしな、やる事も無い!」

そういうとごろんと横になってしまった。こうなると、よほどの事が無い限り満足に取り合って貰えぬ。

「やれやれ・・・」

溜息をつき、既に寝息を立て始めた帝に

「では僕もこれで」

と暇を告げて内裏を後にした。桔梗。関口に似た子供。 ・・・絵。

「桔梗丸・・・」

桔梗丸が関口だという確証はまだ無い。符合する点が幾つかあるだけだ。だが無意識に自分は彼に関わろうとしている。それも自分から。
気づけば視界に関口を探し、暇が有れば彼の居そうな場所を歩いている。彼の笑顔を見たいとつい手を貸してしまう。声を掛けてしまう。彼に惹かれているのだ。そう気が付いた瞬間、心臓が拍動を強くした。・・・まさかとは思ったが、だが、強く否定する感情は湧かなかった。もし、関口が本当にあの子ならば、この背徳心から開放されるのに。
榎木津が関口の記憶を見ているはずだ。それなのに関口の幼少期の記憶に付いては視えないと言う。榎木津もまたどうやら関口に好意を抱いている。だからと言って嘘をつく男ではないから、本当に視えないのだろう。
榎木津からは視えるのは恐らく子供時代の記憶であろう記憶は寺の山門だけ──視線の高さからそう判断したようだ──で、あとは花や、彼方此方の風景が視える位だと言うから、断定しようが無い。桔梗丸ならば僕の記憶が視えても良い筈だ。しかし其れらしい者・・・そもそも彼の中に人間の記憶が殆ど無いというのだ。

──無意識に、他人と関わった記憶を封じているのか。漏れ出さぬように封じてしまったのなら榎木津であろうとも視えぬのかも知れぬ。


記憶を手繰る。あの笑顔。笑顔・・・。思えば、榎木津が言うように初恋だったのだろう。
しかし相手も自分も少年だったから、厳密には恋とは言えまい。友に対する郷愁とでも呼んだ方が良い。しかし、あの桔梗丸が・・・関口・・なのか。
よれよれの無精髭の貧相な猫背の小男。いつも怯える目で自分を見る情けない男。もしそうだとしたら自分の中の綺麗な思い出が残念な事になってしまった哀しさだけはぬぐえない。

溜息をつき、牛車に乗り込もうとしたとき素っ頓狂な声がした。

「あっ、陰陽先生!奇遇ですね!!お帰りですか?」

手を振りつつ、馬から下りてやって来るのは関口の所の鳥口だ。彼もそうやって走ってくるのを見ると子犬のようだった。やはり血縁だな、と思った。

「もー、一昨日先生が帰っちゃった後うちの先生塞ぎ込んじゃって部屋から一歩も出ないし大変だったんですよぉー。一体どうしたんですか?うちの先生なんかやらかしました?」

「・・・・」

まさか、関口の一言を聞いたあの瞬間。あらぬ思いに体が反応しそうになったとは言えなかった。
単刀直入に言えば──抱きたくなった、などと。幸い思考はあの榎木津にも見えないからあの瞬間の自分の思いを暴かれる事は無いだろうが、自分でも腹立たしい。口が裂けても言えぬ。

「あの先生ああ見えて見たまんま気が弱いんで、あんまり虐めないでやって下さいね」

頭を掻きつつ鳥口が言う。

「虐めているとは心外だね。寧ろ助けてやってるんだぜ?全く善意で助けて責められちゃあこっちとしては文句の一つも言いたい所だよ」

眉間に皺が刻まれる。それを見て恐怖で鳥口三歩下がる。

「うへぇ!す、すみませんっ!」

「まぁいい、ところで鳥口君──と言ったか」

「はい、名は守彦と言います」

「君は関口君とは親類らしいが、彼の子供時代の事とか何か知らないのかい?」

彼こそがもっとも近しい人間なのだから彼ならば何か知っているやも知れぬ。出会って1年程だと聞いていたし、関口自身が何も覚えていないのだから深くは事情を知らぬと思っていたが・・・一応血縁関係なのだ。こうして鉢合わせたのも良い機会だと京極堂は単刀直入に鳥口に尋ねた。

「あぁ、親類なのは確かなのですけど、先生のご両親はもう大分昔に鬼籍だと聞いています。昔は右京に居を構えてたそうですが、今は散り散りらしくて、先生が子供の頃どうしていたかは全く分らないです。何しろ、当の先生が物忘れの病じゃないですか。覚えているのは烏帽子名を貰ってかららしいんですよねぇ・・・先生のお父上がご病気で亡くなって、其の後母上が気鬱の病になって」

鳥口が小声になり、周囲に気を使いつつ言った。

「どうも気が触れたらしくて、対面を気にした親類から出家を勧められて尼になって、其の後直ぐ亡くなったそうです。で、結局離散したそうですよ・・・って話は子供の頃、噂話として聞いたけど、先生の子供時代の話は僕は聞いてないなぁ。酷い話ですが、落ちぶれた身内には誰も興味持たない物です。累を避けるためにね・・・。僕はそんなの嫌いですが」

最後は鼻息を荒くして言った。実直な好青年らしい態度だった。京極堂は彼が関口を慕って面倒を見てくれている事に内心感謝していた。

「と言う訳で、先生の家はもう本家や分家の中でも無い物になってる訳で、だれも其処の子供が絵師として都に居るなんて知らなかったんですよね。だって、其の離散した親戚が先生のご実家だったって知ったのは僕が元服した時、先生がお祝いに来て下さって、其の時初めて教えてもらった位ですからねぇ。それで、皆其処の子供って生きてたのかと吃驚してるか、すっかり忘れてたりですよ」

京極堂は鳥口の話しに疑問を持ち問うた。

「関口君は過去の記憶が無いのに、何故君の元服を知って親類として初冠の祝いに来たのだね?」

「ああ、由良様ですよ。まあ近しい血筋じゃあないんですが、公卿にまでなった方って事で僕の一族も虎ならぬ、<由良の威を借りる鳥>ってヤツですね。あの方ももう大分前に隠居しちゃってますけど、先生があの方の書状を持って来たんです。其の手紙に先生が関口巽である事、関口家の跡取りである事を証明する、長らく病で隠遁生活を送っていたがこの度都に上京し絵師として活動するから、力になってやれとかなんとか、書かれていました。どうも僕の初冠に合わせて、先生を親類に周知させようって考えだったようですね。ところが、先生らしいと言うのかなぁ。物忘れの病で僕の家に来るまでの事は全く覚えてないってんですよ。由良様のことも殆ど覚えてないみたいで。でも、書状は確かに由良様の物だってんで、関口家の跡継ぎ本人だとは皆認めたんですけどね。まあ言わば僕と先生は同じ日に成人のお披露目したようなものです。あれですよ、乳兄弟じゃなくて元服兄弟ってやつですよ!」

面白げに鼻を擦って言う。元服兄弟なんて言葉は初めて聞いたぞ、等と返しつつ、京極堂は榎木津の言葉を思い返す。由良・・・そういえば榎木津が言っていた。今は隠居して行方が知れないという元公卿。血族関係だったのか。

「そんな訳で、先生が初冠の祝いにと描いて持って来て下さった牡丹の絵に僕ぁ一目惚れしまして!このまま普通に役職に付いて平凡な日々を送るのかと思ったら、何だか急に詰まらなくなって、それで清水の屋根から飛び降りて先生に弟子入りしたって訳ですよ」

「舞台よりも高いじゃないか、そりゃあ確かに思い切った事をしたね」

京極堂は笑いながら言い、鳥口は

「其の位の気合が無くっちゃ先生の面倒は見られませんって!」

と胸を張り快活に答えた。恐らくは相当な家族の反対を押し切って関口の元へ来たのだろう。あの関口が彼に対して心を許している理由が理解できた。鳥口にとっては手の掛かる師匠であり兄のようなものなのだろう。一方関口にとっては頼りになる弟であり、可愛い弟子なのだ。この二人の間には自分が邪推するような感情は無いのだろう。

「で?関口君は今日は?」

「漸く部屋から出て、庵で絵を描いてますよ。何でも頼まれている草子の挿絵だとか」

「そうかい」

「僕は今日から法要やら何やらで五日ほど実家に帰るので、もし良かったら尋ねてやって下さいませんか。本当は愚痴口言われるのが面倒だし、行きたくないんですがね、流石に爺様の一周忌なので行かなくちゃあ。それでですね、先生一人にしとくと・・・・一週間位何も食べなかったりするんで・・・使用人が食事は作りますが、あの先生、折角作って膳を出しても食べないとなったら梃子でも食べてくれないので戻って来たら餓死とかしてたら洒落になりません。・・・それが心配で」

最後の方は本当に心配そうな表情をして言う。確かにあの男ならやりかねないなと思った。

「・・・気に掛けておくよ」

「じゃ、これで!宜しくお願いします!」

ぱっと表情を明るくし、調子よく鳥口は馬に乗り実家へ帰って行った。馬に乗って颯爽と去っていく様は一端の公達である。鳥口に体よく関口を押し付けられた形になった事に

「・・・なんで僕が」

とは呟いた物の。牛車の行き先は彼の屋敷へと向かっていた。早く彼に会いたかった。
 
 
「関口君、お邪魔するよ」

屋敷の簡素な木戸を叩くと、直ぐに使用人がやって来た。人の良さそうな老人は自分の顔を覚えているのだろう、直ぐに木戸を開け礼を取り、恭しく主は只今体調が思わしくなく・・・と申し上げてくるが、鳥口に頼まれたというと直ぐに顔を上げて案内いたしますと先にたって歩き出した。
鳥口は庵と言っていた。母屋と離れて小さな小屋がある。恐らくそれだろう。縁側の引き戸は開いている。

「関口君」

声を掛けるが返事は無い。しかし中に居るはずだ。
縁側に上がり、中を覗く。描き散らした紙の中、縮こまって眠る関口が居た。鳥口が心配した通り、使用人が用意して置いた食事には手を付けていない様だ。時折、うぅ、と魘されている。苦しそうな表情だ。この男は寝ている時ですらこんな顔なのか。

「まったく・・・関口君!起きたまえ!」

低いが良く通る声で一喝する。関口が身動ぎしてうぅ、と唸った。白い項が映える。

「関口君・・・」

関口の横に屈み込み、耳元で囁く。地獄の其処から響くような声色で。

「この僕にただ働きさせてただで済むと思っているのかい?」

「うぁあああっ!!!?ごめんなさいっ!!」

瞬間、関口は弾ける様に飛び起きた。焦点の定まらない瞳で叫ぶ。

「あ、あぁっ!!後生ですから許して・・・せ、先生!!」

「誰が先生だい」

目の前にいるのが、黒衣の陰陽師だと認識するのに、少しの間があった。

「きょ、きょうごくどう?」

「そうだよ」

「どうしてここに?」

「鳥口君に頼まれたんだよ。君が食事も食べずに閉じ篭ってるから様子を見てやってくれって」

「・・・あぁ、そうか・・・鳥口君、実家に帰るって言ってたっけ・・・」

「全く、予想通り膳に全く手を付けてないじゃないか。作った方の身にもなってみ給えよ」

「う、うぅ、ごめん・・・」

「謝る位なら食べろ。食べる迄見ているからな」

「は、はぃ・・・」

おずおずと膳に手を伸ばし、冷めた粥をすする。おかずもゆっくりと口に運ぶのを見て
ほっと安心した。

「全く、君というやつは寝てる時にも誰かに怒られているんだな」

「え?」

「先生とやらに怒られてた夢見てたんだろう?後生ですから許して、先生、とか、一体何したんだい」

口角を上げてからかう様に言うと、関口の顔色が変わった。手が、体が小刻みに震える。
碗が、手から落ちた。京極堂は、彼の異変に気が付き、声を掛ける。関口は諤諤震えながら片手で顔を覆い、もう片手で胸前を掴んで息を荒げている。何かに怯えているのか、寒さに縮こまるように蹲っていく。京極堂は関口の肩に手を掛け、顔を覗き込もうと近寄った。

「おい、大丈夫か関・・・」

しかし、其の手は関口の肘で振り払われる。関口は寒さで呂律が回らない様な、そんな様子でぼそぼそと掠れそうな声で呟いた。視線が定まらずしきりに瞬きしながらあちらこちらへと移動している。やっとの思いで振り絞ったのだろう、途切れ途切れに言う。

「・・・帰って、お願い・・・す、すみま、せん・・・」

「何してるんだ、碗を落として全く。こんなんじゃ帰れな」

京極堂は碗を拾い上げ、膳に戻し、横へ除けながら小言を言う。しかし最後まで言う前に、関口の怒鳴り声で京極堂は言葉を発せ無かった。

「帰れ!!!」

関口の全身から、例えるなら拒絶の炎が上がっていた。手負いの獣のような、迂闊に触れれば此方へ攻撃をしかねないそんな気を放っている。先程までの関口とは違う様相に、同一人物なのかと思うほどだった。

「関口・・・?」

さすがの京極堂もうろたえた。何なのだ、この変貌は。ともかく落ち着かせねば。もしや熱でも出して錯乱でもしているのかと手を額に伸ばそうとすると、

「僕に近寄るな・・・ッ!!あ、あいつは、あいつとはもう、関係無いんだ!!」

腕で京極堂の手を猛然と振り払い、後ろにずり下がり、吠えた。しかし、此処で引き下がる京極堂では無い。

「あいつって誰だい、落ち着き給えよ関口君、君を害するものは此処には居ないぞ」

「嫌・・・僕は・・・もう、嫌・・・触らないで・・・っ・・!・!」

京極堂を見ては居るが、焦点が合っていない。幻覚を見ているのか。がちがちと歯の根が合わない様子でぶつぶつと何やら言葉にならない言葉をつぶやいている。

「関口君、君は今、自分の家に居るんだ。そして此処に居るのは君以外は僕だけだ。ほら、おいで。大丈夫だから」

勤めて冷静に。刺激させないように声を掛け、目を見据えて側へ膝立ちでにじり寄っていく。少しでも油断すれば、暴れだすかも知れないからだ。本当に手負いの動物と対峙している様だ。京極堂の強い視線は関口を捕らえ、関口は蛇に睨まれた様に動けなくなっていた。

「関口君」

そう言って落ち着かせようと頬に手を当てる。だが、関口は相変わらず震えながらうわ言の様に言葉を発した。

「いや、だ・・・いや、見な、いでくれ、う・・・お、願い、い、嫌だ、僕は・・も、う、いや、手、やだ・・・やめ、て・・・」

涙で濡れ、恐怖で怯え凍りついた表情を見ると、胸が苦しくなる。抱き締めようと肩に手を回した京極堂の胸へ倒れ掛かるように彼は次第に、前のめりになり縮こまって胎児のように丸まっていく。

「関口君、確りしたまえ!関口君!」

京極堂の言葉にも反応せず、小さく縮こまったまま、半ば目を開いたまま意識を失う。心を閉じてしまったのだ。

「拙いな・・・」

京極堂は関口がこうなった原因はおおよそ先生またはあいつと呼ばれる人物に有るのだと理解できた。普段は封じられている関口の記憶。榎木津にも視えない人間の記憶が、恐らく今関口の脳裏に浮上して混乱を来たしているのだ。
寝起きの関口は起きては居ると言え、まだ半ば夢現で、記憶の蓋が完全に閉じて居なかったのだろう。寝言を反復した事により、不完全な封印から辛い記憶が漏れ出してしまったのだ。
京極堂は不用意に彼の記憶を引き出せば関口の錯乱を招くという事に苦渋の思いでは有ったが、関口の過去を知る為には今が好機であるという考えが直ぐに閃いた。
直に、牛車を手配し内裏へ向かう。方違えなどと言っている場合ではない。こういう時にこそあの男のあの通常は鬱陶しいとさえ思える力が必要なのだ。

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「今上!!榎さん!!」

京極堂がいつもの彼とは思えない荒々しい足取りで清涼殿へ入ってきた。

「何だ真っ黒案山子、帰ったんじゃないのか」

今上帝榎木津はごろごろ転がりつつ草子を読んでいる。物忌中で何も出来ない為に只転がっている榎木津は緊張の欠片もない退屈な様子で京極堂を見上げるが、

「関口君が」

黒衣の陰陽師が焦ったように名前を言った途端、帝は彼の記憶を視て表情を変え、

「猿はどうした!」

と飛び起きた。

「関口君の、記憶を見てくれ」

京極堂の後ろから武官に抱えられ、関口が運ばれてくる。赤ん坊のように小さく丸く、石のように硬直していた。

「猿君!!どうした関!!石になっちゃったのか!!?」

榎木津が変わり果てた姿の関口を見て叫ぶ。揺すっても何の反応も無い。これではただの抜け殻だ。うっすら開いた瞳は空虚であり、何も映していない。

「彼の過去に何があったのか視てくれ。早く」

京極堂が何時になく焦ったような声色で榎木津に頼む。

「猿君の記憶は、古いものは何故かはっきり見えないんだがな・・・」

榎木津は関口の背後にはいつも色とか、植物とか抽象的なものしか見えないと言っていた。しかし、この状態ならば意識の内と外が逆転している。心の傷が外に剥き出しになっている今ならこんな風になった原因が映るかもしれないと京極堂は踏んだ。そして、半目になった榎木津が視えたモノを語りだす。

「・・・由良だ。やはり由良の身内なのか。・・・ん、こいつ誰だ?、それと坊主・・の顔・・・と手。手。手・・・。何だこれは」

榎木津の脳裏には、自分を見下ろす男や僧侶の顔が次々と浮かぶ。其の男達が自分の方に手を伸ばしてくる。幾人もの目が自分を見ている。戸を開けると、暗い部屋に誰かが居る。燭台の赤い炎が揺れる。大きな男が自分を見ている。手を伸ばして何か言っている──
感情は分らなくても関口の恐怖がありありと伝わる光景だった。誰が見てもそうだろう。他人の記憶とはいえゾッとした。明らかに不快感を示し、事実、榎木津は視えた物を語りつつその肌には鳥肌が立っていた。京極堂は其の様子を見て眉間に皺を刻む。嫌な、実に嫌な想像が浮かぶ。まさか。関口は。

「こいつら、関口を・・・ッ」

同じように理解したらしい榎木津の美しい顔が怒りと嫌悪感に歪む。

「帝」

「由良め、関口を寺の稚児にしたのか!くそ、あいつ三年前に本格的に隠居して諏訪へ行って以降、所在不明だ・・・引入(ひきいれ)は由良だという事は分ったが、由良の親類にも関口の事を覚えている者は数える程しか居なかった。関口を見たのが初冠(ういこうぶり)が初めてだと言う者ばかりで初冠も簡素に行ったらしいから、殆ど出席者も居なかったようだ。当時を知るような年寄りも既に死んだか呆けてるのばっかりだ」

かわいそうに、と呟き髪を撫でてやる。榎木津は連絡を取ってやろうとしていたのだが、由良の消息はまだつかめていなかった。どうやら各地を転々としているらしい。鳥口の話とも大体かみ合う。
由良の下で初冠を済ませた関口を都に戻す際、鳥口の初冠が行われる機会を利用して都人として周知させ、屋敷などを親類に世話させたのだ。鳥口の言を引用するならば由良の威を借りる鳥達にとっては甚だ迷惑な話では有っただろうが、由良の書状が有る為に渋々承諾し、関口は中流貴族として足場を与えられたのだ。関口巽となる前、彼は。記憶を封印する程の人生を歩んできたというのか。封印してもなお他者に怯え続け、卑屈に成らざるを得ない人生を歩み続けさせられているのだ。桔梗丸であるないは関係ない。関口をこうなる程に虐げてきた者達への怒りで五臓が焼ける。

「・・・ッ」

怒りで京極堂が唇を噛む。閻魔大王の如き憤怒の相。噛み切れて血が滲むが、そんな物は関口の痛みに比べ様も無い。関口の頬を撫でていた榎木津が辛そうに言う。

「かわいそうに、これじゃあ猿君、ホントに見世物じゃないか・・・そうか、だから人の目をあんなに怖がっていたのだな・・・。悪い事をしたな。猿君はもう無理に宴に出なくて良い、好きにさせてやろう。そうだ、猿君用の部屋を用意してやろうかな」

榎木津も知らぬとはいえ、関口に無理をさせた事を反省しているようだった。京極堂の脳裏に、あの月見の宴の日、

『人前に出るのが苦手なんだ、こればかりはどうしようもないんだよ』

と関口が言った言葉が再生され、胸が苦しくなった。
榎木津が関口に上掛けをかけてやる。子供をあやすように背中を擦ってやった。関口は虚ろな目をしたまま反応しない。榎木津は滅多に見せない苦しげな表情をすると京極堂を見上げる。其の声は帝としての命令でもあり、友としての懇願でもあった。

「拝み屋、後はお前の領域だ。猿君を元に戻せ。命令だ。絶対だ」

「言われずとも」

黒き陰陽師は人払いを頼み、関口を元に戻す為の修法を行い始めた。
-続-

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