平安朝百鬼夜行

第八話:狂い咲き


中禅寺がふと目を開けると其処は闇であったが、それは不思議と肌に馴染んだ。意識を周囲に向ける。ぼんやりとした白い靄が目に入り──
──やがて白い花が目に留まった。近づいて目を上げると一面の白い藤の花が垂れ下がっている。藤の甘い香りが鼻腔を満たす。藤棚の中に人影が見え、目を凝らせば一人の少年が立っていた。振り分け髪の少年は白く咲き誇る白藤を嬉しそうに見上げ眺めている。

「桔梗丸」

中禅寺は少年へ駆け寄ろうとしたが足が動かない。

──これは、夢だ。

夢だと気付き、中禅寺は様子を見る事にした。不思議と肌に馴染んだのは自分の夢だからだ。そして桔梗丸も、藤も今此処に存在(あ)るべきものでは無い。しかし唯の夢ではないと中禅寺は感じていた。ならば其の夢に何か意味が有るのであればその意味を読み解かねば成らぬ。じっと見詰める中禅寺に気づく様子も無く、少年──桔梗丸は白藤を手に取った。そして、微笑んで口ずさむ。

『世の中は夢かうつつか うつつとも夢とも知らずありてなければ』
(この世の中の一切のものは、儚い夢なのか確かな現実なのか。
私には現実とも夢とも区別がつかない。結局有るようで無いものだと思われるから)

「桔梗──」

その儚げな様子に胸騒ぎを感じる。夢だと分ってはいる。実体は無い存在だと理性では分っていても、想いは愛おしいその少年をかき抱きたかった。手を伸ばそうとする中禅寺の目の前で少年が変化していく。見る間に烏帽子を被った少し猫背の頼りなさげな見慣れた若者の姿へと変わった。

「──関口君──!」

中禅寺の呼びかけには応えず、関口は相変わらず白い藤を見上げ、微笑みながら

『──いくよ』

と一言呟いた。嬉しそうに微笑むその表情に胸が焼ける。心臓が自分の中から引き剥がされるが如き焦燥感が襲った。いかせては成らぬ。彼が<いこうとしている>のは──。

「関口君、駄目だ!」

中禅寺が叫ぶと同時に、ざぁ、と突風が吹き荒れ思わず袖で顔を覆う。咽返る様な藤の香りが気管に充満する。同時に世界が暗転し、

──くそっ、関口──!

中禅寺は目を開けた。珍しく寝汗を掻いている。まだ鼻や肺の中に藤のあの香りが残っているようだった。寅の刻か。夜明け前だが、しかしそろそろ出仕の時間だ。中禅寺はいつもする様に属星(しょくしょう)を唱え気を調えると、立ち上がり廂(ひさし)へ出る。

──関口に、<何か>が憑こうとしている。<それ>は関口をあちらへ連れ去ろうとするだろう。

夢が示したのは警告だ。放って置けばやがて命に関わるだろう。自らの夢解きを行いながら情景を思い浮かべ、中禅寺は溜息をついた。今すぐに関口の所へ行きたいが生憎と今日は東山まで出掛けねば成らぬ。最低でも今日一日は関口の側には居られない。苦々しく思いつつ、中禅寺は半紙を取り出してびりりと破いた。

「──関口君、君は本当に世話を焼かせてくれるよ」



宿直が終わり、関口は薄暗い朱雀門を出て牛車で自宅へ向かっていた。右京は左京と違い、地盤が柔らかく湿地帯が広がり、人が住むのに余り向いていない場所が多い。その上お上が余り力を入れず開発を途中で打ち切ったため、諸侯も右京を捨て左京へと移動して行った為寂れている。大通りの近くはまだ賑やかであったが、奥に入ると水田や耕作地、荒れ果て打ち捨てられた屋敷が多かった。関口の屋敷は辛うじて中流の貴族が住む地域であったが、それでも左京に比べれば寂しいものであった。関口自身はそんな環境でも寧ろ煩わしい人との関わりを避けられて気に入っていたのだが。

「うわぁ」

と言う牛飼い童の声と同時に、牛車が止まる。まどろんでいた関口はその声と振動に吃驚して目が覚めた。

「ど、どうしたんだい!?」

「ご、ご主人様、ひ、人が、お、おい其処の者、牛車の邪魔だぞ!どきなさいっ!」

牛飼い童が怯えながらも対応する。関口は恐る恐る、牛車の御簾から外を覗いた。牛車の前に一人の少年が立っていた。異国風の衣装を着た少年だ。牛の眼前で怯える様子も無く飄々とこちらに向かって立っている。牛の方が固まって動けなくなっていたのだ。

「関口様の牛車ですね。ご安心を、私は中禅寺様の式で御座います」

「ちゅ、中禅寺・・・?きょ、京極堂か、え、式?式神かい?で、でも何で?」

「関口様に主より伝言で御座います。本日は寄り道せずに真っ直ぐ帰るように、と」

「・・・は?」

関口は訳分らないと言う顔をして間抜けな返事を返した。

「と、宿直明けなんだし、疲れてるんだもの真っ直ぐ帰るに決まってるじゃないか。態々何を言うのかと思ったら、京極堂も変な奴だなあ」

「宜しいですか、真っ直ぐお帰りになり、主人がそちらに窺うまで絶対に外に出ないで下さいませ」

「あ、ああ多分寝ちゃうから大丈夫だと思うよ」

「──確かにお伝え致しました」

そう言うと式は掻き消え、後には清明桔梗印が施された小さな紙切れが落ちていた。牛飼い童が其れを拾い、関口に手渡す。

「京極堂、遊びに来るって伝えるだけなら家の方に使いを寄越せば良いのに」

紙切れを受け取り苦笑する。牛飼い童が再び牛車を動かし、家路へと向かった。関口は宿直の疲れでまたうとうとと居眠りを始める。関口は牛車にも酔う事が有るので、関口の牛車は通常よりもゆっくりと進む。良く、主人に同様とろい牛車だとからかわれるのだが早ければその揺れで気分が悪くなるのだから仕方が無い。のんびりと暫く牛車の車輪の音のみが響いていたが、やがて微かに別の音が混じっている事に、関口は気が付いた。眠っている筈の耳にもその音は確かに聞こえ、意識を目覚めさせる。

「琴・・・?」

関口は目覚めて牛車の御簾を上げ、耳を澄ます。確かに琴の音が響いている。美しい音色だった。

「綺麗な音だなあ・・・。どんな姫が弾いているのかな」

関口はいつしかうっとりとその音色に聞き惚れていた。そのうち、風に乗ってふんわりと柔らかい良い花の香りがする。今はもう年の瀬も押迫った冬だ。花の香りなど有る筈が無かった。しかし関口は琴の音色と花の香りが如何しても気になってしまった。

「こんな冬に花の香りがするなんて、一体どんな花なのかな・・・」

御簾を持ち上げ、あたりを見回す。夏とは違い寅の刻に差し掛かってはいるがまだ星が出ている。だが貴族達は出勤の為に既に起きている時刻だ。中禅寺が式神を送ったのも起きてからだろう。後朝の別れで姫が公達との別れを惜しんで琴を奏しているのやも知れぬ、等と思いを馳せながら我乍ら雅だなぁなどと思いつつ関口は御簾から外を眺めていた。

急に、再び牛車が止まり牛飼い童が牛を叱咤し始めた。

「こ、今度は何だい?また式神かい?」

関口が前方の御簾を持ち上げ外を見る。

「い、いえ、何故か牛が動かなくなっちゃって・・・」

「うぅん、困ったなあ。ここってどこら辺かい?」

「ええと、もうお屋敷までは後三町ほどなのですが・・・」

牛飼い童は牛の手綱を引っ張りながら懸命に動かそうとする。

「じゃあ、歩いていこうかなぁ。そのうち明るくなるだろうし」

「え、で、でも」

「牛が機嫌直したら追いかけて来ておくれよ。僕は琴の音を聞きながらゆっくり行くから」

「え、あ、は、はい」

関口は牛車の後ろから降りると、前に立って歩き出した。牛飼い童が慌てて松明を関口に渡す。松明を掲げて、関口はのんびりと歩き始めた。後に残された牛飼い童は、まだ動かない牛を叱咤しつつ、ふとおかしな事に気がついた。

「あれ、・・・琴の音なんて聞こえてたっけ」

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関口は琴の音に導かれるように道を進む。漂う香りに惑わされるように、関口は有る屋敷の前で足を止めた。門は開け放たれている。寄り道をするなと中禅寺に言われたのだ、真っ直ぐ帰らねばと思いつつも足はそこで止まってしまった。人の屋敷を覗くのは流石に失礼だし、覗いて見つかってもし怒られたら・・・駄目だ真っ直ぐ帰らなきゃ等と思いながらも、遂に好奇心に負け恐る恐る中を覗く。そこはこじんまりした屋敷で、自分の家とそう変わらないような広さだった。目に付いたのは白く浮かび上がる白い花の棚。

「あれは──藤?藤じゃあないか。なんだってこんな季節に・・・」

だが花の香りは、確かに──。

「藤の花の香りだったのか・・・」

関口は門からこっそりと覗き込みながら藤の花を眺めていた。琴の音もどうやらこの屋敷から流れてくるようだった。

「そうかあ、こんな所にお屋敷があったなんて知らなかったよ・・・。きっと綺麗な姫様が居るんだろうなあ」

琴の音は優しく、優雅に流れてくる。関口は松明を落としてうっとりと聞き惚れながら香りに惑いつつ暫くぼんやりと立ち尽くしていた。と、不意に琴の音が止み、かたりと御簾が上がる音がした。

「どなた?」

「え」

ぼんやりと夢心地だった関口はその声にはっと気がつく。中から人が出てくる気配を感じて慌てて立ち去ろうとしたが、遅かった。

「こんな朝早く、お客様?それとも何処かからの後朝のお帰りかしら」

御簾を上げて顔を覗かせたのは白い顔(かんばせ)の美しい娘だった。関口はその美しさに目を奪われ、もはや逃げる事も叶わなかった。

「あ、あの、す、すみません、ぼ、僕、その、と、宿直の帰りで・・・っ、き、きぬぎぬなんて、そ、そんなあ、相手いません・・・っ」

「あら」

「あ、あの、う、牛が動かなくなっちゃって、その、こ、琴の音が、あんまり綺麗で、その、つい、聞き惚れて、それで、ず、ずーっと、ここで琴の音を聞いてただけで、な、何にもしてませんっ」

「まあ」

「あ、ああっ、そ、そのっ、ぼ、僕はこの近くに住んでて、その、あ、あやしいものじゃ、な、無いですっ・・・ぼ、僕、その、せ、関口って、言って、その、え、えし、絵師です、絵を描くんです」

頬どころか耳や手まで真っ赤になり、言葉もしどろもどろに身振り手振りも滑稽な状態になりながらも何とか説明する関口を見て娘は可笑しげに扇を口元に当ててふふふと笑った。

「琴の音を褒めて下さって有難う。貴方、正直な方だからなおさら嬉しいです」

「ぼ、僕は、その、ひ、人と話すのが苦手でっ・・・し、失礼な事言ったらすみません・・・」

「いいえ、ここに来る方は大体琴の音を頼りに来たと言いつつ、夜這いを掛けてくる方ばかりだからいつもは追い返していたのだけど、貴方は本当に琴の音を褒めて下さったのですね」

「夜、夜這いだなんてっ、ぼ、ぼぼぼ、僕はっ・・・っ」

ますます真っ赤になった関口を見て今度こそ可笑しいと言わんばかりに娘は扇で顔を隠しながら笑う。関口は恥ずかしさの余り目を硬く閉じて俯いてしまった。

「ごめんなさい、私の方こそ失礼でしたわ。良かったらお詫びにもう一曲、貴方に差し上げましょう。そんな所に居ないで、どうぞ此方へいらして下さい」

姫は関口がしょ気てしまったのを見て、申し訳無さそうに扇を閉じて謝った。そして関口を招き入れる。関口は鈴を転がすような綺麗な声に惹かれるように門の内に入ろうとしたが、はたと気がつく。仏頂面の友人の式神が言っていた事を思い出したのだった。

「あ、あ・・・ごめんなさい、今日は真っ直ぐ家に帰れと言われてて・・・寄り道してたと知られたら友人に怒られてしまいます」

関口はがっくりと肩を落としつつ残念そうに言った。姫もまた残念そうに

「まぁ、残念です・・・折角お友達が出来たと思ったのですが」

と答え、お友達と言われて関口は舞い上がりそうになる。

「お、お友達・・・」

「でも、こうして出会えましたのも何かの縁ですから、また是非いらして下さいな。そうだわ、今度関口様の描かれた絵を見せていただけますか?」

「は、はい!」

関口は嬉しくなって背筋を伸ばし返事をすると、思わず照れて含羞んだ。姫もその笑顔に釣られるように微笑んで、それから

「またお会い出来るのを、楽しみにお待ちしておりますね。──関口様」

と言うとお付きの者が上げた御簾をくぐり、屋敷の中へ入っていった。関口はぼうっとして暫く佇んでいたが、一番鳥の声に慌てて松明を拾って家路へと急いだ。関口の頭の中は、姫に見せる絵の事や、内裏以外で友人が出来るかもと言う期待で一杯で、何処をどうやって帰ってきたのかと言う事など全く覚えていない事に、まだ気が付いては居なかった。

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−其の弐−

「関口君、──・・・聞いているのかね関口君!!」

筆を持った手を顎に当てて机に肘をついてぼんやりとして居た関口を、中禅寺の一喝が呼び戻した。

「え、あ、きょ、京極堂、来たのかい」

「来ると伝えたはずだが。胡乱な君の事だ、また健忘でも起こしたのかい」

「あぁ、そ、そうだったね・・・いらっしゃい」

心此処に有らずといった雰囲気の関口の態度にムッとした表情で中禅寺は関口の正面に腰を下ろして関口を見据えた。関口は気づかなかったが、中禅寺は幾分か疲れた様相をしていた。東山での案件を片付け、宴席をと引き止める依頼主を丁重に断り急ぎ取って返して来たのだ。それでも、時刻は既に夜半を過ぎていた。

「君、僕との約束を守らなかったな」

「え?」

「寄り道するなと言っただろう。<真っ直ぐ帰れ>と言った僕の伝言を、君は」

「え、ちょ、ちょっとまって、ぼ、僕は、よ、寄り道なんて」

慌てて関口は言い返そうとするが、中禅寺は怒りの混じった声音で関口に言う。

「しただろうが。僕を誤魔化せると思ったのかい?」

「で、でも、牛車が動かなくって仕方なく歩いて帰ろうと思って・・・」

関口は、中禅寺の様相に怯えながらも何とか言い訳をしようとしたが、中禅寺の言葉が其れを遮った。

「君の周囲に、妖気が纏わり付いている。──誰かと会っただろう?」

「え、い、いや、その、こ、琴の音が、聞こえて、その、き、綺麗な姫君が居て・・・で、でも、ちょっと覗いてただけで門の中には、入ってな・・・」

「口を利いたんだな」

「え」

「何か話したんだろう」

「う、うん・・・で、でも、大した事じゃないよ?そ、それに招かれたけど君に言われたからま、真っ直ぐ帰ってきたんだよ」

中禅寺は眉間に皺を刻み溜息をついた。おどおどする関口の表情には明らかな死相が視える。

「家に入っていたら、君は確実に取り殺されていたよ」

「え、な、何を言うんだい!!き、君は、あ、あの姫が・・・よ、妖怪とでも言うのかい!?」

「君が会話したのがその姫だけであるなら、間違い無いだろうよ」

「ば、馬鹿な事を言わないでくれ!そ、そんな失礼な・・・ぼ、僕だって怒るぞ!!」

関口は珍しく語気を荒げた。だが中禅寺は意にも介さぬ態度で関口に逆に詰め寄る。

「怒っているのは僕の方だ。何の為に僕が態々式神を飛ばして警告したと思っているんだ。こんな事態にならぬようにと気を配ってやったのに。いいかい、君は・・・君はあやかしの姫に魅入られたんだ。此の侭では取り殺されるぞ」

しかし関口にはあの姫が人を取り殺すような妖怪には思えず、逆に中禅寺への不信感が沸いてくるのだった。

「何だよ、あの人に会った事も無いのに、君は酷い奴だな!僕はこの通りぴんぴんしてるし、取り殺す心算だったらあの時屋敷に引きずり込んでるだろう?其れをしなかったんだからあの人はそんな妖怪なんかじゃないよ!!」

「関口・・・」

口を開きかけた中禅寺を今度は関口が制した。

「帰ってくれよ!!僕の事は何言われても我慢できるけど、あの人の事を悪く言う奴なんか嫌いだ!」

そう言うと関口は立ち上がって部屋を出て行こうとする。

「待て関口、僕の側から離れるな」

「嫌だ!僕は、あの人と約束したんだから。君は僕の事なんか単なる知人にしか思ってないけど、あの人は僕を友達にしてくれたんだ。絵を見せるって約束したんだ。・・・良いよ、たとえ物の怪でも──。人間だって、僕にとっては──同じ人間に邪険にされる位なら、物の怪だろうが僕を受けいれてくれるなら──頼むからほっといてくれないか」

関口に纏わり付く妖気が色を濃くした。中禅寺は眉間に皺を寄せる。関口は妖の術に完全に嵌っている。今は何を言っても無駄だと悟った中禅寺は、立ち上がり、

「分った。では僕は帰らせてもらう──どうなっても知らないぞ」

「・・・・」

返事も無く立っている関口。その目は感情を映さず伏せられている。中禅寺は小さく息を吐き、関口の屋敷を辞した。

「陰陽先生、うちの先生は──だ、大丈夫なんでしょうか。すみません、話し声が聞こえちゃいまして・・・」

鳥口が門の外まで追って来て、不安気に中禅寺に問うた。

「さあね。──関口君は、人より物の怪の方がお好みだそうだよ」

「そ、そんな、ほっといたら先生取り殺されちゃうんじゃないですか!?」

「まあそうだろうね。大分妖気の毒が回っているよ。ありゃあもう僕の言う事など耳に入っていない」

其処まで言って、中禅寺は言葉を止めた。

──妖気だけではない。纏わり付く妖気だけならば此処で祓える。だが、出来ないのは関口自身が呼んでいるのだ。彼自身が呼ぶ限り、例え祓ってもきりが無い──。

「鳥口君」

「は、はい」

「関口君が家を出たら、門を閉めてこの札を貼り、屋敷中を塩で清めるんだ。いいね。僕が門を開けるまで、家から出てはいけない。開ければ、物の怪が屋敷に入ってくるぞ」

「うへえ!わ、分かりました、でも、門を閉めたら先生が──」

「彼は家を出たら戻って来ないよ」

「え・・・」

「いいね。僕は疲れたから帰るよ」

そう言うと札を渡し、帰っていく。

「い、陰陽先生ぇ〜〜!?そ、そんなぁ!じゃあ、せ、先生は・・・!」

「君だけでも助かりたいなら言う事を聞くんだな。君の師みたいに僕の忠告を無視すれば──」

「わ、わかりました・・・!は、早く、来て下さいねっ!?絶対ですよ!!」

中禅寺を見送った鳥口は、ともかく関口を家から出さない事だと腹を括り、門を閉めた。


鳥口が関口の部屋に行くと、関口は筆を持ち、一心不乱に絵を描いていた。鳥口は後ろに立ち、背後からその絵を覗く。

「藤・・・ですか」

藤棚に白い藤が描かれている。それは細部まで細やかに描かれた美しい絵だった。鳥口は関口の絵を何度も見てきていたが、これ程までに細やかに写し取った絵を見た事が無かった。藤の花が風に揺れるような感覚を思い起こさせる。関口はその絵に更に書き加えていく。屋敷が描かれ、人物が描かれ始めた。

「あの人だよ」

関口は鳥口に気がついたのか、振り向いて微笑んだ。だが、いつもの恥ずかしげな笑みではなく、どこか遠い所を見ている、そんな微笑だった。そして鳥口は違和感に気がつく。

「先生、今まで人を描いた事無かったじゃないですか──」

「そう?そうかも──しれないね」

関口は小首を傾げて呟きながらも、人物を描いていく。

「だ、だって先生は、人間は描けないって──人を描くのが怖いって言って──」

──人じゃ、ないからか──

鳥口は生唾を飲み込んだ。其処まで魅了されているのか。描かれていく女性は美しく、今にも動きそうだった。だが、其れが今は恐怖を呼び起こす。やがて関口は筆を置くと、がっくりと項垂れながら「ふぅ──」と深い息を吐いた。

「せ、先生・・・?」

「──大丈夫だよ──さぁ、行かなくちゃ・・・姫にこれを届けて上げなくちゃ──」

ゆっくりと顔を上げ薄く微笑む関口に鳥口は背筋が凍る思いがした。だが、行かせる訳には行かない。行かせたら関口は帰ってこないのだ。取り殺されてしまうのだ。

「だ、駄目です!!先生、外に出ちゃいけないって陰陽先生が・・・!」

「どきたまえ関口君」

「だ、駄目です!行けば先生、と、取り殺されてしまいますよッ!!」

関口の両腕を掴んで必死で訴える鳥口。だが関口は微かに微笑んで応えた。

「鳥口君。僕の邪魔をしないで」

「せ、先生──先生ッ!!」

鳥口の叫びに一瞬だけ、関口は瞳にいつもの優しげな表情を宿して

「君は、来ちゃだめだよ──ごめんね」

と囁くように言う。だが関口は再び目を伏せて

「どきなさい」

と強く言い、腕を振り払った。鳥口はそれでも追いすがろうとしたが、瞬間、体が動かなくなる。

「かっ、う、うごか・・・!」

金縛りで動けなくなった鳥口を振り返る事無く関口はゆったりと歩いていく。その背に纏わり付く藤の匂いを鳥口も確かに嗅いだ。

「せ、せん、せ・・・!」

門へ向かう関口。さっき鳥口が閉めた門が、木の軋む音を立てて開いていく。だが関口は怯える様子も無く、周囲に気を使う様子も無く、元々門など其処になかったかのように真っ直ぐに前を見て進んで行った。関口が屋敷を出て行った途端、鳥口の金縛りが解ける。金縛りに抵抗していた全身の力が抜け、床にがくりと膝を突いた。

「うはっ・・・!せ、先生・・・!」

だが、鳥口にはどうする事も出来ない。ただ聡明な彼は直ぐに中禅寺の言葉を思い出し、門へ走り木戸を閉め、中禅寺に渡された札で封印をした。あとは、中禅寺──京極堂がこの門を開けるまで、自分達は屋敷を出ることはできないのだ。

「陰陽先生、関口先生を、どうか、助けて下さい・・・!」

閉じた門の内側で、鳥口は暗闇の天を仰ぎ震える手を合わせて祈るしかなかった。

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−其の参−

関口は迷う事無くあの屋敷へ向かっていた。明かりを持たぬ関口の夜道を照らすのは、何時しか周りを飛び交う鬼火となっていたが、関口は表情一つ変えず導かれるように再びこの屋敷の門へとやってきたのだった。琴の音が聞こえてくる。関口が閉じた門へ手を伸ばすと、触れるか触れぬかの状態で門はぎぎいと軋みながら開いていく。関口はぼんやりと其れを見詰めて、門が開くと足を屋敷へと踏み入れた。以前来た時と変わらぬ藤の香りが漂った。琴の音が止み、鈴を転がす様な綺麗な声が関口を呼んだ。

「いらして下さったのですね関口様」

「はい」

姫が庇(ひさし)まで出てきて頭を下げた。

「来られないのではと思っておりました」

「どうして?約束したでしょう」

「貴方のお友達が、許しては下さらないと思っておりましたわ」

女房が関口を案内し、屋敷へ上げた。姫と向かい合って関口は腰を下ろす。姫は御簾を上げて関口を迎え入れた。庭の藤棚から微かな空気の流れと共に届く藤の香りに、いつもならば対人恐怖で禄に口も聞けない筈の関口を不思議に落ち着かせた。

「京極堂の事を知って居るの?」

「あの方は──とても、有名な方ですから」

姫が微笑みながら言う。関口は眉を顰め、俯いた。

「僕は、あいつの友達じゃないよ──あいつにとっては単なる知人だそうだから」

姫は、首を傾げて何か言い掛けたが一度口を閉じ、それから改めて口を開いた。

「関口様」

「あ、は、はい」

「絵を、見せて頂けますか?お持ち下さったのでしょう?」

「あ、は、はい、これです・・・その、は、恥ずかしい限りなのですが・・・っ」

自信無さ気に関口は持参した絵を取り出した。姫は関口から受け取ると、開いてその絵を眺めた。

「───これは───私?」

「は、はい、その、き、綺麗だったから、その・・・」

姫はじっと絵を見詰めると、少しだけ悲しげな顔をした。それから、

「まさか、こんな私を描いて下さったなんて──。あぁ、関口様には私はこう見えているのね──。貴方は優しいわ。とても嬉しい、有難う・・・」

と微笑んだ。そして苦しげな顔をして関口を見る。

「あの方は、貴方が此処に来たらどうなるか──仰られたのではないのですか?行ってはならぬと止めたでしょう?」

「──はい」

「それでも、来たの?」

「はい」

「私は──貴方の命を奪う者よ」

「それでも良いんです。その存在の儘に貴女が僕を必要としてくれるのなら、それで」

薄く微笑む関口に姫は目を見開いた。

「貴方は、私が人を喰らうと知っていて、そうせねばならないと知っていて近付いたのを良しとするの」

「存在を保つ為に人を食べているのでしょう?何も食べずに生きて行く事など誰にも出来ないよ。命ある物はどんな物でも、何かを犠牲にして命を繋いでいるんだ。其処に嘘は無いでしょう?僕にとっては意味も無く他の命を奪ったり、傷つけて喜ぶ人間の方が──酷く怖い」

哀しげに目を伏せる関口。

「人間は──生きる為でなくても、愉しみの為に他者を傷つける。僕は、その度に、いっそ殺して欲しかった。存在を消し去って欲しかった。ならば自分で命を絶てば良いものを、でも、自分では死ねない臆病者だから──。死ねぬのならばせめて独りで生きて行けば良い物を、それすらも出来ない情けない僕は、いつも誰かに依存してしまう」

関口は姫を見て、それから庭の藤を見て眩しげに目を細めた。

「今日、再び此処に来て──琴の音を聞いて分ったんだ。貴女の琴の音は、<僕と同じ音>がした。だから、僕は姫を」

本来、関口は呼ばれるべき者ではなかったのだ。男を誘い魅了する琴の音は、彼を誘うべき音では無かった。だが、琴を奏でる姫の波長が関口と同じ痛みを持つ者として<共鳴>したのだ。関口は姫を女犯の対象ではなく、寂しさに悲鳴を上げる自分と同じ哀しい存在として無意識に惹かれてしまったのだ。姫の顔が苦しげに歪む。

「関口様・・・」

搾り出すように名を呼んだ。

「君も<縋りたい誰か>を<助けてくれる誰か>を待って居るんだね。──そして。貴女にとって僕ではないんだね、その人は」

「──!!」

姫が袖で顔を覆う。泣いているのか。咽ぶように肩を揺らした。

「僕がなりたいと言っても、僕では駄目、なんだよね。でも、友達にしてくれて有難う、嬉しかったよ。僕の絵を見たいって言ってくれて有難う。今の僕に、僕が出来る事で残されているのは、絵しかないから──だからほんとに嬉しかったんだ」

照れたように微笑んで。庭の藤の花が、風も無いのにざわめき始めた。

「お、お帰りください、今ならまだ──私は、貴方を帰してあげられる・・・っ!?」

関口は姫の手を取って首を横に振った。

「だから、貴女の役に立てるなら──黄泉の国への招待だとしても──誰に止められたとしても僕は」

関口の決意を示すかのように、風が藤の花を散らせ、舞う花弁が花吹雪となって飛び交った。

「いくよ」

関口の微笑みに惹かれる様に姫が関口を抱き締め、首筋に口付けた。

「許して下さい──関口様──やはり、私は──浅ましい魔物です──。此処まで知らされてなお、結局、私は貴方を喰ろうてしまう──。貴方は本当に優しい人だから──せめて、一寸も苦しまぬ様に、巫山の夢に──」

「十分です・・・十分夢の中、です。僕は凄く幸せです。こんなに綺麗な人に、優しい人に最期を委ねられるなら」

ざわざわと藤の弦が関口を絡め取って行く。白い藤の花の芳香が屋敷を包んだ。

「僕はいつも胡乱だから──夢現の中で逝けるなら、僕に相応しいと──ううん、僕の、願いだから──」

姫の手なのか、藤の弦なのか、もはや関口には分らない。ただ分るのは関口を抱き締め、肌を撫ぜて行く感触だった。

──どうか僕の全てを、微塵にも残らず消し去って──貴女に辛い思いをさせてしまうけれど──

「世の・・・中は・・・夢かうつつか・・・うつつとも・・・夢・・・とも・・・知らず・・・ありて・・・」

身体も心も侵食されていく痛みですら、妖しの妖力で甘い歓喜へと変わり、抱かれる快楽の中で喰われていく関口の命。

「ぁ──・・・」

昇り詰めた関口の鼓動が、音を無くそうとした──その時。轟音が轟き、稲妻の矢が関口に絡みついた藤の蔓を断ち切った。

「どうして君は──そうやって、逝こうとするのだ──君が今、仮令(たとえ)此処で姫に喰われて、一時の安寧をくれてやったとしても──姫は変わらず孤独にして、また待たねばならぬのだよ、独りで愛しい人を──」

開かれた屋敷の門からあやかしの結界を潜りぬけて黒衣の袍を来た男が歩いてくる。

「君は、無駄死にするだけだと言うのに。分っていてどうして、関口──」

藤の弦が震える。怯えるように、威嚇するようにざわざわと震え、黒い袍を纏った男を囲んだ。

<──陰陽師──京極堂様ですね──関口様は、こうなる事をご自分で望まれたのです。私と彼は、痛みを共有する者。此の方は進んで私の糧になって下さったのです>

関口を抱いていた姫が起き上がり、京極堂を見た。衣を脱いだ女のその身体の半分は、藤の木と溶け合っていた。

「久遠寺の姫よ──藤野少将殿は既に──五年も前に亡くなっておりますよ。貴女がどれだけ此処で待とうとも、彼は此処へは来ません」

男──京極堂は、囲む藤の蔦を全く意に介さず、淡々と言った。

<──!>

「その男は貴方のものでは有りません。返して頂こう」

<──あの方は来ます、来ると約束したのですから。私は其れまで此処で待たねばならないのです>

「来ませんよ。彼はすっかり成仏してしまっているのに、魔道に堕ちた貴女の元へどうやって来るというのですか」

姫の言葉に京極堂は少し悲しげな顔をしたが、良く通る低い声で、場の空気を震わせるように言った。

「さあ、関口を離しなさい。それは僕のものだ。無理にでも引き剥がされたいならそれでも構わないが、大人しく返すならば──貴女を藤野少将殿に会わせてあげても良い」

久遠寺の姫はその言葉に固まった。震える声で京極堂へ問う。

<──本当に?あの方に会わせて頂けるのですか?>

「ええ、会わせてあげましょう。──だが、それは貴女次第だ」

姫は関口の身体から離れた。そしてふらふらと京極堂の元へ歩む。京極堂は関口から離れたのを確認すると、呪を唱え始めた。手には勾玉と紙で結わえた誰かの髪であろう束を持っている。

「──この十種の瑞宝を以ちて 一二三四五六七八九十と唱へつつ 布瑠部由良由良と布瑠部 かく為しては死人も生反らむと言誨へ給ひし・・・故この瑞宝とは 瀛津鏡 辺津鏡 八握剣 生玉 足玉 死反玉 道反玉 蛇比礼 蜂比礼 品品物比礼の十種を 布留御魂神と尊み敬まひ斎き奉ることの由縁を・・・」

朗々と響くその声に、屋敷に漂う瘴気が掻き消されていく。あやかしの姫の姿はやがて唐衣を纏った美しい姫の姿へと戻る。

「平けく安らけく聞こし食して 蒼生の上に罹れる災害また諸諸の病疾をも 布留比除け祓ひ却り給ひ 寿命長く五十橿八桑枝の如く立栄えしめ・・・常磐堅磐に護り給ひ幸し給ひ 加持奉る 神通神妙神力加持」

京極堂が呪を唱え終った時、手にした勾玉が輝き、眩く光り輝いた。その光の中には、烏帽子を被った公達の姿。

「我が背の君・・・!」

「──姫、どうしてこのような所に──何故こんな所に留まっておられるのだ──?」

「死反玉(まかるがえしのたま)で一時的に藤野殿を現世に呼んだのだ。さぁ、時間は余り無いが語らうと良い」

そう言うと京極堂は関口へ駆け寄り、息を確かめる。

「──関口君・・・、巽、巽・・・!」

血の気を無くした表情はもはや死人と言っても良かったが、まだ命は辛うじて尽きては居ない。直ぐに抱き抱え、呪を唱える。だが、生気が足りない。此処は凶宅だ。妖怪の潜む陰の気が支配する。場所が場所だけに、関口に与えられる陽の気が少なすぎる。陰陽師の脳裏には、それを補う一つの方法が有ったが、いや出来ぬと直ぐに打ち消しては結局其処へと思考が戻ってしまう堂々巡りを繰り返していた。それは、安易に実行に移せる物では無かった。

「くそ・・・それしかない。だが、下手すれば──」

後ろを振り返り、庭で抱擁し再会を喜び合っている姫と公達を見る。二人の動向によってはまだ自分は呪力を使わねばならぬ。間違えば妖の姫の攻撃を受けて此方が危うくなる事も考えられるのだ。事を始めれば直ぐに事態の変化に対応できぬ。だが事態が収束するまで符で関口に気を送り込むのも限界がある。関口が朝まで持つか、其処が問題だ。

<京極堂さま>

暫くの後、集中して呪を唱え続けていた京極堂の耳に姫の声がした。

<かたじけのう御座います──再びこの人と会う事が出来ました、もう、思い残す事は御座いませぬ>

振り向くと、庭の光は消え、姫が死反玉と、髪の束を両手に乗せて微笑んでいた。髪の束は藤野少将の物だ。彼の実家に行き、遺髪を受け取ってきたのだ。

「そうか。──で、貴女はどうされるのですか?」

<もし、叶うなら、この藤を燃やして頂けますか>

「其れは構いませぬが・・・もう、宜しいのですね」

<構いませぬ。あの方と再会し、来世の契りを結びました。その事で私の執着も既に消えました・・・。もう此処に居る意味も無く、ただただ、閻魔の裁きを受け、何時か再び六道輪廻の輪へ入りとうございます>

「承りました。来世で再び会える事を──祈っておりますよ」

そう言うと、京極堂は式神を呼び出して藤の木を燃やすように命じた。

「ありがとう・・・大事な方を傷つけてしまった事、お許しください──。どうか、関口様にお気持ちが伝わりますように──。それから、関口様に、申し訳なかったと──。絵を、有難うと──お伝えください>

風に煽られ、関口が描いた絵が姫の元へ飛ぶ。姫はそれを自然な動作で受けると絵で丁寧に髪と勾玉を包み、姫は其れを胸に抱き、燃え盛る藤の木へと吸い込まれるように重なる。そして、微笑んで──舞う火の粉となって天へ上るように消えた。

「さて」

と、陰陽師は溜息をつく。ひとまず大きな山は片付いた。だが、肝心の関口が瀕死だ。しかしこのまま運ぶ事も出来ぬ。もし、穢れを背負った関口を連れて行けば道すがら百鬼を呼んでしまう。只でさえ今頃は、関口の家の周囲には関口が呼んだ瘴気に吸い寄せられた物の怪が囲んでいる事だろう。お調子者だが聡明な鳥口の事だから、言いつけどおり陰陽師京極堂──中禅寺が行くまで戸を開ける事は無いだろうが、このままでは関口が持たぬ。

「はぁ、此処に及んで尻込みとは僕らしくないな」

──分っているのだ。何をするべきなのか、何をしたいのか。今この場に於いて最も効率的な<陽の気を与える>方法。だが、こんな状況で──

中禅寺は苦しげに眉間に皺を寄せ、関口を強く掻き抱いた。

「──こんな状況で、君を抱く事になるとは思わなかったよ」

====================
−其の四−

「君を死なせはしない。仮令、この様(さま)が君が望んだ死だとしても」
中禅寺は、安らかな関口の表情に強い焦燥感を感じ、噛み付くように口付けた。関口の反応は無く、弛緩したままぐったりと中禅寺の行為に身を委ねている。その様子に胸の奥から激しい憤りにも似た感情が噴出してくる。掬おうとした両手から零れ落ちる水。壊さぬようにどんなにそっと扱っても崩れ落ちる砂のように、関口の命が消えていく。喉から、全身から叫びたくなる衝動を押さえ、中禅寺は陰陽師として理性的に次の行動へ移った。

この屋敷は長い間妖怪が棲み付いて居た陰の気や穢れが屋敷全体に染み付き、足を踏み入れる者に禍をもたらす<凶宅>だ。主であった藤の木の精となっていた久遠寺の姫が消えたとは言え、その穢れが払われる事は無い。元の主が結界を張っていた為に入れなかった外の妖達が直ぐにでも入り込み、名実共に化け物屋敷となるだろう。故に、

「少なくとも陽が昇るまでは結界を張って置かねば──」

数体の式神を召還し、今居る一間の四方を護らせた。それから残りの式に床に薄縁(うすべり)を数枚重ねて敷かせ、その上に褥(しとね)を敷いて関口を寝かせる。そしてその周囲四方を几帳で囲み、簡易の寝所──帳台を作らせた後衝立の外側に立たせて明かりを持たせ、護法神とした。

「これで、朝までは持つだろう」

如何に稀代の陰陽師とは言え京極堂──中禅寺の体力と気力は今朝からの行動でかなり消費していた。その上これから関口に相当量の自らの生気を与えねばならぬのだから本当は呪力を余り使いたくは無かったのだが、結界を怠り妖怪に襲われでもしたら元も子も無い。結界を張るその間も中禅寺は関口に符を介して陽気を送り込み、命を繋げていた。

「巽」

全ての結界を張り終え、中禅寺は帳台に入った。関口は既に殆ど衣を纏わぬ姿で横たわっている。外の護法神が持つ灯りに関口の青白い肌がほのかに橙色に染まる。藤の蔓(つる)が巻き付いていた部分には痛々しい赤い痕が残っていた。そして姫のであろう口吸いの痕も彼方此方に赤い花弁の様に関口の肌に散っていた。苦しげに眉を顰め──痩せて少しあばらの浮いたその胸に手を置き、そっと心臓の鼓動を確かめ、安堵の息を漏らす。そして衣を肌蹴ながら関口に重なった。

<房中術>。本来長生を主にした古来大陸では秘術とされて来た男女の営みを利用した養生術だ。一般には男が陽、女が陰として陰陽の交わりを説くが、そもそも人間の身体には陰陽の気が両方備わっており、精を循環させる事に於いては異性間のみではなく同性同士であっても房中術は可能であり、同性で行う場合は妊娠する事が皆無な為、有権者等に好まれたと伝えられる。
また房中術は唯の性交ではなく、本来は精を漏らす事はほとんどしない。精を漏らせば生気を失う事になる。大きく言えば体にすら触れる事無く気を交感する事で陰陽の交わりを行う事も出来る。これを<神交法>と言い、「精神(意識)」のみにて気の交わりを行うのだ。
だが、それは高度な技であり双方の同意、同等の気、それなりの気の練度が必要となる。故に関口には無理だ。

──玉女採戦(ぎょくじょさいせん)。中禅寺の採ろうとしている方法は一方的に相手の気で自らを補う修法だ。本来は男性が女性の気を奪う事が多いが、逆に女性が男性の気を奪う事も出来る。勿論、同性同士であっても可能だ。だが、奪われる側は体を酷く損ねるとされ、他派からは邪術と捉えられる術でもある。気を上手く扱わなければ二人ともあの世行きに成りかねぬ。ただ気を与えれば良いと言う物ではなく、強過ぎる気では衰弱している関口を却って傷つけ殺してしまい、逆に弱ければ関口の命を維持出来ぬ。

気を整えつつ関口に口付ける。舌で口腔に割り込み、関口の温度を確かめる。以前関口が熱を出して寝込んだ時に貪った時には蕩けるように熱かった粘膜は、今は乾燥し微かな体温しか感じない。関口の両頬を両手で包み、中禅寺は己の体温を分け与える様に舌を絡める。強張っている舌を解すように中禅寺は関口に呼気を与えつつ、片手を頬から滑らせるように頸から鎖骨、胸へと這わせる。冷えた胸を掌で摩り、掌から気を少しづつ与えていく。その間も口腔を舌で愛撫して行くと、渇いていた関口の口内が少しずつ潤って来た。刺激で少しずつ滲んできた関口の唾液を絡めるように舌で混ぜ、口内の経絡を滑るように刺激する。歯茎を舌でなぞり余す所無い様口腔内を舌で愛撫し、唾液の分泌を促す。その間に胸を愛撫して居た手で関口の胸の小さな突起を抓んでやると

「────、ぁ──」

喉の奥で小さな声が漏れた。微かな声ではあったが、其れは関口が発した生きている証だった。

「巽」

喜びと焦りで鼓動が早くなるのを押さえ込み、中禅寺は唇を滑らせて関口の胸まで下がって行きつつ、既に刻み付けられている妖の刻印を塗り替えるように肌を吸った。赤い口吸いの痕が目に付く度に腹の中で嫉妬の熱が湧き上がる。だが気を乱せば調律が崩れ危険だ。あくまでもこれは、関口を救う術なのだ。肌から入り込んだ瘴気を吸い取り、呪を唱え吐き出せば、奇妙な虫と成ってギチギチと鳴きながら床下へ逃げて行った。

触れる部分から気を流し込みつつ体内に入り込んだ瘴気を吸い取り、妖によってばらばらに切断された関口の経絡の流れを繋いでいく。頭から頸、胸から腹へ、下腹部へ。臍の下三寸に丹田という最も重要な気の集まる部位がある。其処を活性化させて下半身と上半身の気を繋げれば、途切れていた気は循環し再び生命活動を始めるだろう。
躊躇い無く中禅寺は関口の雄芯に手を伸ばし、口に含んだ。少し血の匂いと精液の独特の匂いがする。妖(あやかし)に精を搾り尽くされたふにゃりとした柔らかく頼りないそれは、同じ男として哀れささえ感じる。だが同時に、その様が何とも愛おしいと思うのは、自分が関口に対して抱いている感情の所為なのだろう。
そっと傷ついた先端を舌で丁寧に愛撫し、片手で竿を支え裏筋に沿って舌で刺激を与えつつ快楽を促すように舐め上げて行く。もう片手は臍の下──丹田へ置き、自らの気を与える。枯渇した関口の丹田は中禅寺の手掌から気を奪うように吸収して行く。其れを上手く制御しながら、少しづつ刺激で熱を持ち始めた雄芯から口を離し、手で扱いてやると小さいながらも少しづつ硬くなって来ているのが分る。気血が其処へ集まり始めているのだ。

「──巽」

陵辱された痕が痛々しく残る柔らかい関口の秘所を舐めてやる。中禅寺にとっては妖異の陵辱に過ぎないが、関口にとっては、この陵辱も快楽の中で行われたのだと思うと中禅寺の中でやりきれない感情が湧き上がる。しかし理性的に其れを再び押し込めて局部から菊門の間にある会陰(えいん)と呼ばれる経穴をそっと押す。経穴から経絡へ気を回し、丹田へ送り、上半身の経絡へ気を流す。少しづつ、関口の体温が上がって来ている。手応えはある。
再び中禅寺は関口の雄芯をゆるりと扱いてやる。そっと咥えて舌で先端と雁首を弄ってやれば、

「───」

関口の声にならない鼻に掛かったような息遣いが漏れた。ひくり、と太股が反応したのを確認し、

「気持ち良いかい?」

と初めて中禅寺は口角を上げた。唾液で滑りの良くなった雄芯を扱いてやりつつ

「出させてあげたいが君は精を漏らしちゃいけないからね」

と話し掛けながら関口の精を通すように刺激を与えていく。

「──、、──ぅ──」

しっかりと熱を持ち始め、先走りを零し始めた雄芯を扱きつつ目を細めて観察し、ふぐりを揉んでやれば、収縮して硬くなっていた。

「巽、おいで」

そう言って中禅寺は軽く爪で関口の先端を突いた。その刺激が引き金となり精を放とうとした関口の雄芯を直前に握り、押し留めて経穴を突く。精を戻し、陽気として丹田へ送り込む。

「今度は僕の番だ」

先走りと唾液で濡れた指を関口の菊門へゆっくりと差し込む。関口の息がやや乱れるのはその刺激によるものだろう。既に妖によって陵辱された其処はさほど抵抗も無く中禅寺の指を受け入れ、柔らかく包んだ。指の本数を増やし、中で動かしてやるとぐちゅぐちゅと音を立て始める。気血が回復してきている所為か、反応が早くなって来ているようだった。指を曲げて一点を突けば弱弱しいながらもひくり、と身体が反応を返す。関口の微かな甘さが掛かった吐息と、関口の中の蕩けるような指の感覚に中禅寺の下腹も熱く滾っていた。

「いい子だ、──挿れるよ」

袴から自身を出し、関口の腰を浮かせ、薄縁(うすべり)を一枚丸め込んで尻の下に宛がうと、膝を屈曲させて足を広げ、覆い被さる様に関口の中へと自身を埋め込んだ。

「ん・・・ぁ・・・」

はっきりと刺激を感じているのだろう、少し仰け反る様に関口が息を吐く。この刺激で関口が目覚めれば良い、とさえ思ったが、相変わらずぐったりと目を閉じたままで、中禅寺は哀しげに彼の頬を撫でた。其のまま律動を始めれば、関口の微かな喘ぎ声と水っぽい肉がぶつかり合う音が部屋に響く。関口は肉体は反応を返すようになってはいるが、精神の方は今だ黄泉比良坂(よもつひらさか)に立っているのだ。気が廻り、魂魄の魄が戻ったとしても、魂が戻らなければ意味が無い。ともかく気血を回復した後は今度は魂のほうを迎えに行かねば。

律動を繰り返しつつ、中禅寺は色々考えを廻らす。ふと、自嘲気味に笑いが込み上げて来た。
情人を抱きながら、こんな事務的な事を考えている自分の姿が、皮肉としか思えない。
如何に普段感情とか、色恋沙汰とは縁の無い自分であったとしても、本気で好いている者と初めて<枕を交わす>時位は幸せを噛締めたいと思うのだ。互いの息を感じて、互いの熱と情を交歓し、離れ難いと後朝の別れを惜しむ──そんな思いをしたかった。なのに、その初めては──幸せとは程遠い気分だ。結界の外で屋敷に入り込み既に蠢いている妖怪達からこの小さな帳台を式神に護らせつつ、生死の境を彷徨う彼を一方的に抱いている等──。

──其れでも皮肉な事に、僕は、現実、君を手に入れている事に悦びを感じているのだ。

関口の体内が熱を持ち段々と温かくなり、中禅寺の雄芯を優しく包み込み、内壁が蠕動し収縮するその感覚に全身の血が中で滾り、彼の中により深く入ろうと腰を打ち付ける。

──いつも君を抱きたかった。君は知らないだろう?僕は何度も、君に想いを持ってから今まで君を夢でこうやって抱いていたのだ。現実となった今だって、<君>は僕に抱かれている事実などそれこそ夢にも思っちゃ居ない。──君が目覚めたら、僕は何事も無かったように君に話しかけるのだ。君とまぐわうこの快楽も思いを遂げた悦びも、全て幻にしなければならないのだよ。だって君は、<知らない>のだから。

「──其れがどんなに僕にとって辛い事か君には判るかい?」

関口の肩口に顔を埋め、両腕で関口を抱き締める。

「君は、自分を狂っていると言うが、其れを言うのならば──僕の方が狂っているのだ。僕は君の為なんかじゃない、僕の為に君を生かして置きたいのだから。君を喪いたくないばかりに僕は君にこんな、獣(けだもの)の様な──。与えるのが生か死かの違いだけで、僕とあの姫は同じなのだ」

ぅ──ふぅ、という関口の喘ぎが耳元で聞こえ、中禅寺は廻る思考から引き戻され、行為に集中することにした。己の熱が高まり、腰は意思を持つかのように関口の中に快楽を求めて律動する。締め付けが更に快楽を引き出し、高まっていく。それにつれて中禅寺の気が関口の中へと吸収され、廻り始める。関口の雄芯も再び頸を持ち上げ始め、互いの絶頂が近い事を知らせた。中禅寺は片手を関口の雄芯に伸ばし、精を放つ事が出来ないように握った。その刺激で関口の中が締まり、

「──ぁ、ぁ──」

「巽・・・っ──!」

耳元の関口の喘ぎと同時に、中禅寺は関口の中に精を放った。何度か律動を繰り返し、精を放つ。其のまま蓋をするように男根を入れた儘、関口の経穴を押し、気を丹田へ送り込んだ。その瞬間、

「ぅぁぁ──はぁぁ──」

と、関口の喉奥から呻き声にも似た深い溜息のような息が発せられる。体が完全に息を吹き返したのだ。

「ふぅ・・・」

安堵の息をつき、ぐったりと関口の上に被さる。正直、限界まで消耗し切っていたが、もう一仕事残っているのだ。指を絡めるように関口と両の手を繋ぐ。呪を唱え、語りかける。

『関口君。戻っておいで』

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──黄泉比良坂(よもつひらさか)。此処はきっとそう呼ばれるところなんだろう。
この坂を下れば、其処はきっと黄泉だ。僕の行き先は地獄なんだろうか。先へ進もうとしても足が動こうとしないのは、其れが怖いからなのだろうか。

関口は霞が掛かった林の中に立っていた。目の前には下り坂があり、その行き先は見えぬ。時折老若男女がぽつりぽつりと関口を追い越して坂を下っていくが、誰も此処で立ち止まって居る関口に見向きもしない。声を掛けてみたりもしたが、ぼんやりとした表情だったり、無視だったり、中には睨みつけて行ってしまったりと関口に対応する様子は無かった。

──はぁ、と溜息をつく。足は其処から先へ動こうとしない。

「どうしよう・・・早く行きたいのに」

仕方なくその場でしゃがんでいると、不意に声をかけられた。

「もし、貴方」

「え?」

顔を上げると、傘を被った旅の僧だった。

「貴方、何故此処に居るのですか?引き返しなさい」

「え、でも、僕は」

「貴方はまだ、半分しか<こちら>に来ていないのですよ。人には魂魄と言うものがある。魂は文字通り魂であり<心>。魄は身体を支える<気>。貴方の魂魄は、今、魂だけがこの冥府への境界線に来ているのです。魄の方が伴っていないのですよ」

「え、ええぇ・・・そ、そんな、じゃ、じゃぁ僕は」

「今引き返せば、身体に戻れます」

「身体に戻れるって・・・」

「生き返ると言う事ですよ。羨ましい限りです」

そう言うと、僧は後ろを振り返る。

「まぁ、私はもう人生には満足ですがね。愛する者も居りませんし。ただ──仏僧である私が神道の黄泉比良坂に居るとは──仏への信心が足りなかったのでしょうかねぇ」

そういって苦笑する。

「信心が足りないから、大事な人をあんな目に遭わせて長い間縛り付けてしまったのかなぁ」

遠い目をして来た道を眺める僧を見ていると、関口は何故か切なく胸が痛くなり、慌てて

「ほ、仏様への信心が足りない方が、こんな風に人の為に歩みを止めて話しかけたりしないと思うんです。此処に僕はずっと居て、貴族や、武士や、老人や子供──、色んな人が僕の前を通り過ぎましたが僕に声を掛けてくれたのは貴方が初めてだし、──それに、貴方からは何と言うか、温かい感じが、しますから──そ、それに、あの世の形はその人の考えと言うか、思い方次第だって聞きました」

関口の言葉に、僧は少し驚いたように目を丸くして関口を見て

「そうかい?じゃあ、ここで出会ったのはきっと君と私に縁が有ったのかも知れないね。この先はちゃんと三途の川だと思うようにしよう。有難う」

と笑うと、周りを見渡して

「それにしても、此処へ来るのは<死者>だけだからね。貴方は厳密には<まだ生きている>のだから、下手にこの地を通る者に関わらなくて良かった。相手が悪ければ連れて行かれる所ですよ」

関口は其れを聞いて、視線を伏せて呟いた。

「──連れて行ってもらえたら良かったのに」

「死にたかったのですか?」

「そうかもしれません、いえ、あの時は確かに死にたかったと、思います・・・」

僧は関口を少し見詰めてから口を開く。

「人間にはね、寿命と言うものが有る。其れは、自分が決めるものではなく、生まれる前に決まっているといいます。与えられた寿命を永らえるのも削るのも、己の行い一つですが、どんなに生きたいと思っていても死ぬべき時にはどんな手を尽くそうとも死にます。逆にその人がどうしてもまだ死ぬべき時ではない時には、死のうと思っても死ねない物なのですよ。貴方はまだこの先、生きなければならない理由があるのでしょうね」

「理由──?な、何でしょうか、その理由とは──」

「さぁ、其れは拙僧にも分りかねます」

「そ、そうですよね」

関口は項垂れた。

「僕は、生きていても価値の無い人間です。やっと、逝けると思ったのに──」

「そうでしょうか。拙僧には、貴方の魂はとても綺麗に見えますがね。だから彼女もあの人も惹かれたのでしょうな。ほら、こんな所で留まっていないで早く戻ってあげなさい」

「え」

関口は顔を上げる。

「──ほら、貴方を呼ぶ声が聞こえませんか?余程貴方に戻って欲しいと見える」

僧が小さく笑う。

「最期の最期に人助けが出来て良かった。これもきっと仏の導きでしょう」

「あ、あの」

「うん、そろそろ私も逝かねば」

「ぁ、」

「貴方は戻りなさい。──そうだ、一つ頼みが有るのですが、聞いて貰えぬかな」

「な、なんでしょう」

「戻ったら、貴方の友人に言伝を頼みたいのです」

「え」

「この度の件かたじけなかったと。そして、これで借りは返したと」

「──?」

「謎解きは、帰ってからしてもらいなさい」

僧は愉快そうに微笑むと、関口を置いて歩き始める。

「あ、あの、待って、お、お名前を、あ、あの僕はせき」

名を名乗りかけた関口の言葉を僧は手で制した。

「申し訳ないが此処で生者と名乗りあう事は出来ない。死者に名前を言ってはいけない」

「ぁ──」

哀しげな表情の関口を慈しむ様に僧は微笑んで、

「この世の一切は、一つとして確かな物など無いのです。全ては移り変わり、留まる事は無いのです。けれどね、それを虚と見るか実と見るかは、貴方が先程あの世の形は思い方次第と言ったように全ては心の持ち様で決まるのですよ。生きていようが死んでいようが流れは留まる事は無いのです。貴方は世界は流れていても自分だけは変わらないと思っているのでしょうが、貴方自身も今この瞬間にも変わって居るのですよ。貴方は先程自分の価値が無いと言っておられましたが、貴方の価値は、確かに今日は無いかも知れない。けれど、明日には誰かにとって掛け替えのない物になって居るかもしれないのです」

「───かけがえの、ない」

呟き、関口ははっと気づく。もう其処にあの僧の姿は無かった。来た道を振り返る。先程まで霞が掛かっていた道が、霞が晴れて遠く続く道が見える。その先には芒と葦の原が広がり、

『戻っておいで──君』

『──戻っておいで、──君』

誰かが呼んでいる。この光景は、いつか見た事がある。泣きそうな心で誰かを呼んでいるのは。

──何時だったろうか。ずっと、ずっと昔だった気がする。あの声を聞いて、寂しくて泣き出しそうな、胸が痛くなる声を聞いて僕は放って置けなくて、その声に近付いたんだ。

ざぁ、と風が吹く。関口の目に映ったのは、角髪(みずら)の少年。大人びた表情の、でも今は泣きそうな。気が付けば彼の背後に立っていた。その背中に不思議な、懐かしいような感覚を憶えつつ

「──迷子なの?」

声を掛けると、少年が驚いたように振り向いた。──あぁ、懐かしい、そう思った。

「大丈夫?──ぅっ!!?」

急に少年に抱きつかれた、と思った瞬間、抱き込まれていた。自分より明らかに背が低かった少年が何時の間にか公達に代わり、自分より背も高くなっていた。

『やっと、見つけたよ、全く何処までも──僕の心を乱してくれる』

「え?」

見上げて顔を見ようとするが逆光の所為なのか、目が霞んでいる所為なのか、はっきりと男の顔の造作が分らず、関口は何度も目を瞬いた。

『帰ろう、関口君』

「き、君は」

男は片手で関口を抱き締め、もう片手で関口の手を指を絡めて握りしめ、耳元で囁いた。

『僕は、もう手を離さないよ──巽──』

次の瞬間、再びざぁっと強い風が吹き、世界が真っ白に変わった───。

----------------------------------------------------------------------------------------

「───先生!!先生!!あぁあ、先生が目を覚ましました!!」

聞きなれた声が部屋に響き渡る。あぁ、鳥口君の声だ。もう朝なのか──。

ぼんやりした意識で天井を見れば、見慣れたいつもの天井だったが、何故だか新鮮に見えた。

「関口先生、僕が分りますか!?」

「──鳥口君だろ、違うのかい?」

ふらつく頭で上半身を起し、鳥口を見れば、

「大丈夫、当たってますッ!!うへえ、起きて大丈夫ですか?!良かった、心配したんですよもうホントに──!!ぼかぁ、ぼかぁもう先生は駄目かと思って──!!」

と、突然鳥口が抱きついて大声で泣き始めた。

「え?な、なんだい、え?」

状況が読めずに戸惑う関口。鳥口がしゃくり上げつつ説明する。

「もう先生ったら全然憶えてないんですか!!物の怪に取り憑かれて危うく取り殺される所だったんですよッ!!陰陽先生が居なかったらもうとっくに先生は物の怪に食われちまってる所でしたよ!先生が行っちゃった後は屋敷の回りに物の怪が集まって来て門を開けろと大騒ぎするし、生きた心地がしませんでしたよ!!その上陰陽先生が先生を連れ帰って来たら二人ともぼろぼろだし、特に先生なんかもう本当に死体じゃないかって思って──」

鳥口の喋りを遮るように部屋を仕切っている几帳の向こうから低い声がした。

「五月蝿いなぁ、こっちにも寝てる人間が居るんだぜ。少しは恩人を労わりたまえ。全く、君のその元気を少し分けて貰いたい物だな」

「うへぇ!!す、済みません陰陽先生──そちらで寝てるの忘れてました!!」

「──おい?」

几帳の向こうから聞こえる低い剣呑な声に鳥口が震え上がって、何か元気の出る食べ物持ってきます!!と慌てて部屋から出て行く。几帳の向こうで人が動く気配がして衣擦れの音がした。姿を現したのは中禅寺だった。

「きょう、ごく、どう?」

「気分はどうだい、関口君?」

小袖を着た中禅寺が此方へやって来、関口の横に胡坐をかいて座った。

「うん、大丈夫」

「そうか、良かった」

小さく笑む中禅寺は疲れの色が隠せないようだった。普段も顔色が良いとはいえないが、今日は何時にもまして血色が悪く見える。

「ごめんね、また、君に迷惑を掛けてしまったみたいだ──」

項垂れる関口に、中禅寺は扇を弄びながら今更だな、と返事を返す。

「事の次第は──覚えているかい?まぁ、覚えて居なくても良いんだ。忘れているなら無理に思い出さなくて良い」

事の次第──、関口は額に手を当てて記憶を反芻し、溜息をついた。

「大体憶えてる──。姫は、姫はどうなったんだい?」

中禅寺は左手の扇で床をとんとんと叩きながら、胡坐に右肘を突いて右頬を預け、無表情で目を伏せて静かに答える。余程疲れているのだろう、きっと起きているのも辛いのかも知れないと関口は思った。

「あぁ、姫は──彼岸へ渡ったよ。君に感謝していたし、謝っていたよ。ああ、絵を有難うと伝えてくれと」

其れを聞くと、関口の目から涙が零れ、歯を食いしばり、掛け布を握り締めて泣いた。

「僕は──僕は、結局何も出来なかったんだな──。死ぬ事すらも──」

床を叩くのを止め視線だけ、中禅寺は関口へ向け関口の言葉を遮るように言う。

「そんな事は無いよ。君は姫の心を癒した。それに結果的に君の存在のお陰で姫は想い人に再会する事が出来たんだぜ?──それと、あんな真似はもうするな。あんな事をしたって無駄死にしかならないのだぞ」

中禅寺の言葉に、関口は手の甲で涙を拭い、掛け布を眺めながら言った。その声音には少し非難めいた含みが有った。

「──僕の命、君が戻したのだろう?」

「──迷惑だったかい?」

関口はぼんやりと布団を眺めていたが、苦笑気味に溜息をつき、答えた。

「正直、何でほっといてくれなかったんだって思ってる──でも、──多分、これで良かったと思う」

中禅寺は僅かに眉間に皺を寄せたが、何時もの口調で返した。

「そうかい。其れを聞いてほっとしたよ。命を助けて怨まれるのは不本意だからね。ほら、起きてないで横になり給え。お互いまだ快復していないのだからね」

関口は中禅寺に促されて横になる。中禅寺も関口の横にそのままごろりと横になった。

「あ、ごめん、君も辛いんだろう?静かにしてるから布団で寝たまえよ」

「良いよ、此処で」

「でも、そんな床の上じゃ」

「良いんだ。君がふらふらと居なくならない様に此処で」

「しつこいなぁ、も、もう出てかないよ、流石に・・・っ」

「どうだかね、また狂い咲きの花の香りに誘われて出て行きかねないな」

そう言うと、中禅寺は関口の手を掴んだ。

「!」

「こうしていたまえ」

そういって目を閉じる。関口の脳裏に、<あの場所>で聞いた言葉が蘇った。

『僕は、もう手を離さないぞ──巽──』

「───」

中禅寺の手から、優しい暖かさが伝わって来る。それは、胸に伝わり安堵感と共に懐かしくも感じるものだった。朧気に微かに脳裏に残る、あの情景──。あれは、多分、僕の──記憶。

「僕は」

「ん?」

「君に昔会った事が有るのかな───」

「───!!関口君・・・!?」

ほろ、と関口が漏らした言葉に反射的に中禅寺は起き上がり、腕を掴んで引き寄せた。関口の顔を覗き込むように顔を近づけ、凝視する。思い切り掴まれた腕が熱く、痛い。関口は中禅寺の突然の剣幕に驚いて固まり、何か怒らせたのかと急激に不安に陥り失語した。

「い、いや、そ──そんな、気、気が、するんだ、な、なんだか、ちょっと、そう思ったんだ、気を悪くしたなら、ご、ごめん、謝る、から・・・」

怯える関口の表情に関口が完全に思い出した訳ではない事を悟って、中禅寺は軽く脱力し、腕を放すとまたごろりと横になる。縮こまった関口の手に手を伸ばして再び繋ぐ。関口は一瞬びくりと怯えたが、中禅寺が離さないので其のまま不安げに中禅寺を見下ろした。

「良いんだよ、すまない。少し驚いたんだ。奇遇にもね、僕も君に昔会った事が有るような気がするんだよ。ほら以前、吉野に居たかと聞いたろ?君は憶えてないって言ってたがね」

そういって苦笑しながら関口の手を握ったままの手を見る。あの時、黄泉比良坂で再会した時、関口は迷子かと聞いてきたのだ。それは、桔梗丸と自分が出会った時、あの子が初めて自分に向けて言った言葉だった。関口には、あの時自分の姿がどう見えていたのだろうか。子供に向けて話しかけるような態度だった。あの世では人は一番思い入れのある年齢に戻ると言う。もしかすると関口には<あの頃>の自分が視えていたのやも知れぬ。それは、桔梗丸の記憶なのだろうか。

「そ、そうだったっけ?じゃぁ、もしかしたら、本当にどこかで会っているのかなぁ、思い出せたら良いんだけど・・・どうしても記憶が思い出せなくて・・・」

無理に思い出す事は無いのだ。先日の関口の恐慌騒ぎで無理に記憶を引きずり出す事はしないと誓った。押し込められた記憶は今の様に何かのきっかけで少しずつ漏れ出して行き、いつか自発的に思い出すだろう。自分はその時に彼を受け入れて守ってやれば良いのだ。

「そんな大昔の事など無理して思い出すことも無いさ。ほらもういいから。今は身体を治すことを考えたまえ。数日は君は安静にしないといけないんだからね。触穢(しょくえ)の物忌と言う事でとりあえず内裏に上奏して休暇を貰っているが、早く治して参内しないと榎さんが暴れるぞ」

話を切り替える為に榎木津の名を出せば、関口は慌てだす。

「うわぁ・・・ど、どうしよう京極堂、今月分の挿絵がまだ残ってるんだよっ」

榎木津が大暴れする姿を想像して関口は冷や汗をかいて掛け布にもぐりこんだ。

「其処までは僕は知らないよ、自分で何とかしたまえ。何だい、死んでる場合じゃないじゃないか馬鹿だなあ。あぁ僕も疲れたよ・・・そろそろ寝かせてくれないか。明日には御霊会(ごりょうえ)で神泉苑へ向かわねばならないのだから。やっぱり僕も物忌だって言えば良かったよ」

「死んでる場合じゃないって何だよ!って、神泉苑──?陰陽師って仏教だっけ?僕は神道だと思ってたよ」

掛け布からひょこりと顔を出して聞く関口。相変わらず好奇心だけは旺盛なようだった。

「陰陽道は仏教でも神道でもないよ。学問だ」

「え、何か信仰してるんじゃないの?」

「──信仰は神仏や教義などを信じてその教えや存在を己の拠り所とする事だろ。仏教や神道などはそうだが、僕らが扱っている陰陽道とは森羅万象を観察して天地運行の中にある万物の根源を突き詰め普遍の原理を読み解き、陰陽・五行を用いてその現象が瑞祥であるか凶兆であるかを判断し、未来を予測する技術の事なのだよ。大陸より伝わった陰陽五行思想に、同じく大陸より伝わった密教や仏教、道教などに含まれる卜占や占星術、風水術などを取り入れ、わが国独自の技術体系とした物が陰陽道なのだよ。まぁ、近世では現実的な除禍招福が望まれるようになって、呪術的なものが取り沙汰されて学問と言うよりは現世利益を求めるものが多くなったから、方術や民間信仰との繋がりが強くなって来ているなぁ」

「へ、へぇぇ──成程ねぇ」

関口は内心「正直良く分らない」と匙を投げたが、一応感心して理解した素振りを見せた。中禅寺はそんな関口を見て理解して無いだろうと内心苦笑し、

「複雑な物だからね、一朝一夕で理解出来るような物ではないよ」

とだけ付け加えておいた。関口は見透かされていた事に肩を竦めて掛け布を指で弄っていたが、

「──あ、そうだ」

ふと思い出したように声を上げると、中禅寺のほうを向いた。

「ねぇ、京極堂」

「何だい」

「謎を解いて欲しいんだ」

「?」

「黄泉比良坂で出会った旅のお坊さんに言伝を頼まれたんだ。『この度の件かたじけなかった、これで借りは返した』だったかな──僕の友人に、と言っただけで名前は言わなかったから誰に言えば良いのか分らないんだけど・・・。そ、その、知人でも、君ならもしかしたら、謎が解けるかなと思って・・・。いや、その、多分・・・彼の言っているのは君の事じゃないかって思うんだよ、その、気を悪くしないでくれよ?」

中禅寺の眠そうに伏せられていた目が開き、関口を見る。知人と言われた事が余程尾を引いているのだろうか。だが敢えて其の事について今は説明する気にはならなかった。

「───ほう?他に何か言って居なかったかい?」

「んーと、色々話したんだけどな・・・目が覚めたらもうあんまり憶えてないんだけど、信心が足りないから、大事な人をあんな目に遭わせて長い間縛り付けてしまったのかなって──」

「そうか」

そう言うと中禅寺は目を閉じて微笑んだ。

「ねぇ、誰だか分かったのかい?」

「あぁ、分ったよ。彼は、藤野少将だよ」

「?」

「久遠寺の姫の想い人だ」

「!」

「藤野少将と僕はね、彼の生前何度か内裏の祭事などで同席した事があるんだ。主に公式行事での付き合いだったから姫との事は知らなかったが──、昨日東山へ行ったのは、少将の追善供養だったのさ。お身内の夢枕に少将が立たれると言うのでね。彼方此方の寺に供養してもらったのだが一向に状況が変わらないという事で、漸(ようよ)う陰陽師たる僕の所に話が来たのだ。彼をどれだけ供養した所で、彼が何故夢枕に立っているのかという理由が分らなければどれだけ宥めても効果は無いのだよ。死ぬほど腹が減っている人間にどんなに良い話を聞かせても腹は満たされないだろう?其れと同じさ。屋敷でお身内から少将の話を聞いて、久遠寺の姫の存在に行き当たった。姫は彼より先に亡くなって居たんだよ。彼が国司として地方へ派遣されていた間の出来事だったらしい。その後国司の任を終えて都へ戻った彼はその折に都で流行っていた流行り病で亡くなったのだ。姫を弔う為に出家した直後だったらしい。結果として少将は成仏されていたのだが、先に亡くなった姫の方は少将の帰りを待つと言う未練が執着となり屋敷に留まってしまう内、鬼になってしまった。二つの魂は互いに想い合いながらもすれ違ったままで、その間に幾人もの犠牲者が出てしまった。君も危うく犠牲者の一人になる所だったのだよ。──彼の言う礼と、返した借りは、僕が姫と会わせた事と、彼が君を助けた事だろうな」

「──そう、だったんだ。どうして、あの人が僕を助けてくれたのか不思議だったんだ」

「不思議でも何でもないさ。全部繋がっている。僕と藤野少将が面識が会った事、君が姫と出会った事、僕と君が知じ──知り合っていた事。そして、僕が少将と姫を引き合わせ、少将が冥府の入り口の君を僕の元へ導いた」

「何処かで必ず繋がっているのか──藤野様も言ってた何かの縁ってやつかぁ。でも、やっぱり不思議だなあ」

「不思議なものか。森羅万象の総ては全て法則によって成り立っている。すべて物事は相関関係が有るのだ。どんな事にも原因は必ずある。間違えずに読み解いていけば、一見全く関係ないと思われる事象にも必ず関連性が有り答えが有るのだ。この世にはね、不思議な事など何も無いのだよ、関口君」

関口は、難しいなぁ。と苦笑して再び天井を見た。

「姫は、向こうでも藤野様に会えたかな」

「さぁね。彼が旅装束を着ていたのなら、今も探しているのかも知れないな。僕は彼の魂を現世に一時呼び戻して姫に会わせただけだからね」

「そう、か・・・」

「姫にはまだ浄化が必要だから──会えるのは来世かも知れないな」

「──来世かぁ。うん、生まれ変わったら今度は二人とも幸せになれると良いな」

関口は来世、と言う言葉に希望を持ったのか声が少し明るくなる。中禅寺は、因果応報と言う言葉を飲み込んだ。姫の今生での行為が彼女達の来世にどういう影響を及ぼすかと言う事は確証が持てないし、関口を不安にはさせたくなかったからだ。

「所でさ」

「ん?」

「何時までこの手握ってるの?」

関口は中禅寺が握っている手を左右に振りながら言う。その手はしっかり指を絡めて握られている。

「何だい厠にでも行きたいのか?」

中禅寺は面倒臭そうに言い、関口は首を横に振って否定する。

「いや、そうじゃなくてっ」

「嫌かい?」

上目使いで聞けば、

「い、いや、そう言う訳じゃないけど・・・」

反射的につい答えてしまう関口。

「じゃあ良いじゃないか」

「手、べたべたして気持ち悪くないかい?僕、汗かきだからさ・・・」

「別に」

「でも、子供じゃないんだし、手を繋いで寝るのは、何か・・・」

「五月蝿いなぁ、何度も言うが僕も君のお陰で疲れているんだ、手を繋いでる位でごちゃごちゃ言わないでくれよ」

どういう理屈だとは思ったが、君のお陰で疲れていると言われれば、それ以上は強く言え無かった。

「そ、それは、うぅ・・・」

「──それとも物足りないのかい?」

「は?」

「手を繋ぐのでは物足りないのなら」

中禅寺は手を握ったまま関口の褥に転がり込み、抱き込んだ。

「え?え?ぇええ?」

「ああ、やっぱり床で寝るより良いな。それに温かい──ん、君の烏帽子邪魔だな。外すぞ」

温かい。あの時抱いた関口は冷えた体を晒していた。今思い返してもぞっとする。抱きこんだ関口の体温に<戻って来た>のだと実感して目の奥が熱くなる思いだった。

「ええええ!?ちょ、ちょっとま・・・」

「別にいいじゃないか、今更露頂くらいで恥ずかしがる事も無いだろ」

もっと密着する為に関口の烏帽子を外してその辺に放る。現れた頭頂部の小さな髷を弄りながら、中禅寺は満足げに関口を抱き抱える。烏帽子は成人男子にとってその証であり、烏帽子を人前で外す事は最大の羞恥と言っても過言ではない。寝る時も、病で臥せっている時でも常に被って居なければならず、人前で髷を晒す等とんでもない事であった。ましてや他人の烏帽子を勝手に取り払うなど、これが公の席ならとんでも無い大騒ぎだ。幾ら胡乱だの馬鹿だの猿だの言われている関口にだって自尊心と言うものは人並みに有るのだ。

「き、き、君・・・ッ、き、気でも狂ったのかい!?え、烏帽子を取るなんて酷いじゃないか!!そ、それに僕は女じゃないぞ!い、幾ら疲れてて人肌が恋しくてもこ、これは可笑しいんじゃないか??眠すぎて寝ぼけてるのか!?ねえ、聞いてるのか京極堂っ!」

羞恥と事の状況が把握できず混乱してじたばたする関口を半ば夢現に中禅寺は言う。

「狂ってるかい?──そうだな、狂い咲きの藤の香に中てられたのかもな・・・それに別に人肌を恋し求めるのに男女は関係ないよ、そうだろう?」

「京極堂・・・」

「・・・君が嫌なら振り解いて行けば良い。もう、僕は疲れたから動けないしね。──でも、出来れば今は、こうして生きている温もりが欲しい・・・」

中禅寺は其れきり目を閉じて眠ってしまった。力が抜けてぐったりと掛かる中禅寺の腕の重さ。

「・・・京極堂」

自分を助ける為に精根尽き果ててしまったのだと悟り、関口は抵抗するのを止めた。腕に納まってじっとしていれば中禅寺の体温が伝わって来る。彼の胸に手を当てれば、伝わって来るのは普段纏っている冷徹で鋭利な気とは似つかない、温かくて優しいものだった。懐かしくて、どこか馴染んだ温かさ。
──思えば彼は最初から心配してくれていたのだ。そんな彼の警告を無視して自分は姫の事で一杯になってしまい、心配して来てくれたのに酷い事を言って追い返してしまったのだ。それなのに自分を助ける為にこの男はあの屋敷に来てくれたのだ。鳥口の話では、あの屋敷から自分を運んで来たのは京極堂だ。鳥口がもう駄目だと思ってあんなに泣く位自分は酷い有様だったのだろう。

「──温もり、か──」

今感じている温もりは、夢でも現でも無い、彼と自分が生きている証だ。日の光とも、炎の熱とも違う、優しいけれどなんて満たされる温かさだろうか。これを失ったらどんなに寂しい事だろう──。それなのに、自分は守ろうと尽力してくれていた中禅寺の前でその命を捨てようとして居たのだ。

──君が起きたら、ちゃんと謝ろう。そして、ちゃんと有難うって言おう。

そっと中禅寺の胸に顔を摺り寄せ、鼓動を聞く。その律動が心地良くて次第に眠くなって来る。

──今日はきっと悪夢は見ない。──彼が居るから。

そう思うと関口は心の其処から安堵して、眠りに身を委ねるのだった。

-八話・了-
-続-

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