平安朝百鬼夜行

第九話:都の鬼

平安調百鬼夜行第九話 -都の鬼-

漸く草子の挿絵を依頼主に渡し終わり、一息ついた。気がつけばもう神無月も終わりだ。気の早い所ではそろそろ年越しの準備もし始めて居るらしい。
そういえば仕事が忙しいのと物忌が重なり、方違えで家を空けていたり等で内裏にも上がっていないから京極堂にも帝にも半月も会っていない。
京極堂といえば物忌だろうがなんだろうが平気な顔で此処へ来ていたが、ここ半月は音沙汰が無い。
しかし会わねば会わないで穏やかな日々が過ぎていく。この半月は内裏でのあの喧騒が嘘のような日々だった。

「内裏へ上がってくるよ」

「行ってらっしゃい先生!」

鳥口がいつもの調子で見送ってくれる。牛車に乗り込み、この静かな日々も終わりかと溜息をつきながら内裏へと向かった。


兵部省が慌しいようだ。何やら人の出入りが激しい。

「なんだろ」

と、訝しく思いつつも縁が無い所だし、と通り過ぎようとした。

「関口先生じゃねぇか。久し振りだな!忌み明けかい?」

声をかけられる。声の方を見ると、木場だった。最近は夜警だったと聞いた。怪我したのだろうか、腕を吊っている。

「あ、旦那!・・・どうしたんです?・・・・怪我?怪我したのかい?」

「大した事はねぇ、かすり傷だ。そっちはどうだい?うまくやってるか?最近は仕事も増えてるらしいじゃねぇか。今や一端の宮廷絵師様って奴だな!」

「そ、そんな事は・・・で、でもお陰さまで日々の糧を食める程度には成りました」

木場に頭を下げる関口。木場が絵で食って行ける機会を与えてくれたような物だ。もし木場と出会っていなければ、日々の糧にも困っていたやも知れぬ。

「そうかい。それは良かった。其れはそうと先生が居ない間あいつら二人とも苛々してていけねぇ。ま、あいつらのお守も大変だが上手くやれよ」

あいつらと言うのは多分「あの」二人の事だろうと、顔を思い浮かべて関口は少々げんなりした。

「は、はあ。。。旦那はお仕事明けですか?」

「いや、明け・・ではないんだがな。一旦休息をとる事になった」

木場の表情を見ると、やはり疲れているのだろうか、強面の顔ではあるが覇気が無い。心なしか少し窶れて隈も出来ている様だ。

「そうですか、旦那、良く休んで下さいね」

心配そうに見上げる関口に、木場は心配すんな大丈夫だ。と肩を叩いて去っていった。

「・・・旦那」

関口はその背中を見送りつつ後ろ髪引かれる思いではあったが、とりあえず書房へと向かった。
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時刻は昼前、作業を終えて関口が工房で伸びをすると廊下で使用人たちが何やら噂話をしていた。

「まだ退治出来ないそうだよ」

「怖いねぇ、もう何人殺されたんだい?」

「相手は羅刹のような鬼だ、流石の木場様も手古摺ってるようだなあ・・・」

「今回は腕利きが三人も大怪我したってねぇ、あの木場様ですら怪我をなさったそうだ。死人が出なかっただけマシだったよ」

そんなことを話しつつ、工房の前を去っていく。

「木場の旦那、鬼と戦ったのか・・・?」

どうしても気になり、筆を置いて木場の部屋へ向かった。
 
「木場の旦那、居るかい?」

恐る恐る御簾を上げて様子を見る。木場が関口を認めて飲みかけていた碗を止めた。

「ああ、関口の先生か、どうした?」

「あ、あの・・・、その、怪我が気になって・・・」

御簾の所でもじもじと入るのを躊躇する関口に、

「そんな所でもぞもぞしてねぇで入って来いよ」

と声を掛けた。

「う、うん、そうさせてもらうよ」

安堵した声で御簾を潜って中へ入ってくる。木場は茵(しとね)に腰を下ろして酒をちびちびやっていたようだ。関口は木場の正面に腰を下ろして

「寝てたのかい?」

と聞いた。

「いや、眠れねぇよ」

「痛むのかい?」

「・・・怪我は大した事じゃねぇ、己の不甲斐無さに腹が立ってな。全くざまァねぇや」

と吊った腕を厄介物の様に振った。巻いた布には血が滲んでいる。関口はその腕を痛々しそうに見詰めながら

「鬼が、出るって聞いたよ」

さっき小耳に挟んだことを聞いてみた。

「!なんだ、聞いたのかい」

ちょっと驚いた表情をしたが、まあ人の口に戸は立てれねぇしな。と頭を掻いて

「ああ、そうだ。おかげで此処暫く夜の都中を無駄足踏まされっぱなしだ」

「他にも大怪我したって聞いた・・・」

木場の表情が曇る。

「あぁ、青木もな」

ポツリ、と言って黙ってしまった。

「あ、青木君が・・・!?だ、大丈夫なのかい・・・!?」

真っ青になる関口を見て、木場は元気付けるように歯を見せて笑顔で言った。

「大丈夫に決まってんだろ、あいつはああ見えても武将だ」

「あ、ああ、・・・そ、そうだよ、青木君なら、きっと大丈夫だよね」

木場に元気付けられるように肩を叩かれて、頷いた関口は、手を木場の怪我したほうの手へ伸ばした。

「・・・・痛いかい?」

そっと木場の腕に触れる関口。木場はかすり傷だと言ったが、どう見てもそんな軽々しい傷じゃない事くらいは関口にも分った。

「大丈夫だ。こんなもん直ぐ治る」

「うそ、痛いじゃないか」

「大丈夫だって言ってんだろ」

関口の手を退けようとして、木場は関口が泣いているのに気が付いた。

「ちょ、お、おい、何お前が泣いてんだッ」

「旦那が、な、泣いてるから・・・」

「馬鹿言え泣けるかこの程度でッ」

木場は関口の手を退けた。だが関口は木場の袖をぎゅ、と握り大粒の涙を流しながら

「き、傷よりも心が、い、痛いんだよ」

泣く子供のようなその表情に、木場は叱り飛ばそうと思ったが、出来なかった。木場は気付かないが、関口は木場や青木に同調してしまったのだ。無意識に同調された木場には関口を突き放す事が出来なかった。

「もう泣くな、お前さんが泣く事じゃない」

「だ、だって・・・ッ、だ、旦那が!」

不意に関口が胸に飛び込んできた。勢い後ろに倒れそうになるのを何とか堪える。

「うぉっ!?ちょ、ちょお前関口ッ!!!?」

余りの事にさすがの木場も呆然となった。

「だって、旦那すごく自分を責めてる!!なんでだよ!旦那の所為じゃないじゃないか!!」

しがみ付いて泣きながら。怒る関口。木場は関口を引き剥がそうかと肩に手をやったが、震えているその肩に触れると、何故か出来なかった。

「ホントに、小猿だな・・・」

小動物が震えているように思えて、引き離すという無体な行為が出来なかった。
代わりにあやす様に背中を撫でてやる。不思議と、先ほどまで自分を苛んでいた苛立ちが
軽くなった気がする。と、暫くするとなんだか関口の体重が増えた気がした。

「やれやれ」

見やればしがみ付いたまま寝ているではないか。

「おい先生、こんな所で寝るなよ・・・」

困ったように頭を掻くが、やはり引き剥がす気にもなれず。自分もごろりと横になる。泣き腫らした目元は赤く染まり、赤子の様にも子猿のようにも見えて庇護欲が沸く。泣き濡らした頬を拭いて遣りながら寝顔を見ている内に、瞼が重くなって居ることに気が付いた。

「あんたの寝顔見てるとこっちまで眠くなってきたぜ・・・」

思えば此処半月ろくに寝ていない。眠い、と思えなかったからだ。
なのにこの猿男の寝顔を見たら、急にどっと眠気が襲ってきた。
そうだな、寝るか・・・ちゃんと寝て起きたらいい考えも浮かぶかも知れぬ。
そう考えて、木場は久方ぶりに意識を手放した。
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それから数刻がたったか。日が翳って風が冷たくなったのを感じて、木場は目を覚ました。
傍らには相変わらずしがみ付く様にしてすぅすぅと寝息を立てている関口が居た。

「・・・・良く寝たな。よし」

気持ちも切り替わっていた。関口を起こすのは忍びなかったので、そのままにして大の字になって天井を見た。

「さて、どうするか・・・あの化け物を退治する何か手を考えねぇと・・・」

関口の頭を撫でながら、木場は鬼を退治する策を考えていた。不意に、「旦那、居ますか」と声がした。

「ああ、京極堂か」

入りますよ、と御簾を上げ黒い男が入ってきた。

「怪我の具合はどうです・・・ッ・・・」

こちらを見た陰陽師が息をのむ。

「ああ、大した事はネェよ、俺はぴんぴんしてるぜ。ん?どうした?」

と陰陽師の様子が変だと思い、顔を見ると、硬直している。こんな顔は滅多に拝めない。

「・・・どうして関口君が」

「んぁ?ああ、昼過ぎに此処へ来て、見舞いに来たみたいなんだが、いきなり泣き出してよ。泣き疲れて寝ちまったんだよ。起こすのも可哀相だからそのまま寝かせてる」

京極堂は木場に返事もせずつかつか寄ってきて、着物のすそを掴んでいる関口の手を解く。

「関口君起きたまえ」

「・・・うぅ、ん・・・」

揺さぶり起そうとする京極堂を止める木場。

「お、おい京極堂、いいじゃねぇか寝かせてやれよ」

しかし京極堂は木場の制止を無視して一喝した。

「君は一体どこで寝てるんだい!」

「うぁ・・!?あ、あれ京極堂・・・?なんでここに?」

素っ頓狂な声を上げて関口が目覚め、目を擦りながらくぐもった声で言う。

「木場の旦那の見舞いだよ、それより何だね君は、半月振りに出仕しているかと思えばこの僕の所に挨拶にも来ないで、木場の旦那にしがみ付いて寝てるとはどういう了見だい!」

すごい剣幕だ。木場はあっけに取られてみている。この男のこんな所は滅多に見れぬ。関口はひいぃと怯えて木場にしがみ付いた。それを見て益々京極堂の眉間に皺が寄る。

「君が此処にいたって、木場の旦那に迷惑なだけだろう、とっとと帰りたまえ!」

「そ、そんな、ぼ、僕だって・・・」

「僕だって何だい、今だって寝てただけじゃないか。それとも添い寝が仕事なのかい?」

「ち、ちが、そ、そんな事はっ」

中禅寺に詰られて泣きそうな顔をする関口に居たたまれず、木場は助け舟を出した。

「まあまてよ、迷惑じゃないぜ。先生のお陰で久方ぶりに良く眠れたんだ、寧ろ助かったくれぇだ」

木場の言葉に、「ありがと、旦那ぁ」と潤んだ目で頬を染める。京極堂の視線がその関口に注がれる。その表情は何とも形容しがたいある意味殺意を含んだような睨み顔だった。だが木場はなんとなく分かった。

「京極堂、おめぇ何、やきもちやいてんのか?」

考えた事をつい言ってしまう。絶対零度の視線が自分に向いた。こえぇ、と木場は思った。他の殿中の人間なら気絶しそうなほどだ。

「何を馬鹿な事を、旦那まで帝みたいになっちまったんですかい?」

氷の様な声で京極堂が言う。関口などは震え上がって木場にしがみ付いている。流石に木場は豪胆な笑顔で睨み返し言葉を返す。

「馬鹿いえ、あいつと一緒にすんな。やきもちじゃないならこいつの事はほって置けよ。俺は別に迷惑じゃねぇ」

「──僕はお邪魔なようですね、失礼します。また出直しますよ」

す、と立ち上がり、有無を言わせぬ空気で立ち去った。

「ぁ、きょ、ごく・・・」

「ほっとけほっとけ」

「う、うん・・・」

不安げに去って行った御簾を見ていたが、

「ホントに迷惑じゃなかったのかい?」

と木場の顔を見て不安げに聞いた。

「ああ、お陰で良く眠れた、すっきりしたぜ。考えも纏まりそうだ」

がはは、と笑いながら無骨な笑顔で言う。関口はその豪快な器に安堵した、と同時に木場のために何か出来ないかと強く思った。

「よかった、・・・あの、僕に手伝える事が有ったら言っておくれよ」

安どの表情で言う関口に、木場は包帯を直しながら

「絵描き先生の出る幕は無いと思うぜ」

と笑った。そ、そうだよね、と一寸寂しそうに言って、関口は今度は興味深そうな顔をして聞く。

「ねえ、鬼ってどんなのなの?」

「あぁ、姿を見たやつはそう居ないんだが、とにかくでけぇ刃物を持って、人や牛を切り裂くんだ。狙われるのは有力貴族の子弟ばかり。夜中出歩く奴なぞそう居ないが、夜這い帰りの連中が良く襲われてるってこった」

「は、はぁ」

「夜警で一晩中走り回っても、やつの手の早さに追いつけねぇ・・・。昨日は青木が囮になっておびき寄せてみたんだが、あと一寸で見破られちまった」

「あ、青木君が・・・なんで?変装してたんだよね?」

「変装はして居たさ。勿論帯刀もしていなかった。思い当たるとするなら金気の臭いとか、武士(もののふ)の気配がしたのかもなぁ。まぁ憶測だ、分らん。」

「もののふの?」

「ああ、俺達は常に刀を持ち歩いているからな、それに武術の心得がある独特の気配や殺気ってのがある。そいつを隠すのは中々手練れ同士では難しい。例え帯刀していなかったとしても染み付いた金気や気配は完全に消すのは難しいだろうな。────かといって鬼に食われるかも知れんのに文官に囮になれとかは言えぬし・・・そもそも、鬼が出ること自体、一応秘密なんだぜ」

「うぅーん・・・・」

関口は暫く考えていた。木場の吊った腕を見詰めていたが、やがて目を伏せてじっと考えている。睫が長いな、と木場の脳裏に過ぎった時、ぼそりと関口が口を開いた。

「あの・・・、僕は・・・。僕は、その、え、絵師だけど、その、絵師じゃ、だめかな」

「は!!?」

木場は関口が何を言い出したのかと思わず目を見開く。関口はもっともこういう話からは逃げる男の筈だ。それが一体どうしたと言うのだ。木場は目の前の猿顔の男をまじまじと見た。

「そ、その、ぼ、僕なら金気の臭いしないんじゃないかな、そ、それに武術の心得なんて──ないし」

「よせよせ!あぶねぇんだぞ!お前自分が何言ってるのか分ってるのか??」

「そ、そりゃ分かってるよ・・・。怖いし、で、出来れば関わりたくないよ。で、でも、旦那や青木君が怪我したりするのは嫌だ。嫌なんだよ」

関口は木場の包帯を巻かれた腕をそっと触る。木場を傷付ける程の鬼なら自分はあっと言う間に喰われてしまうかもしれない。だが、木場や青木を失いたくは無かった。数少ない関口に笑い掛けてくれる、友達と言える人たちだ。喪いたくなかった。嫌だ。そんな脅迫にも似た思いに鬼への恐怖が負けた。

「・・・お、おびき寄せが成功すれば、やっつけられるんだろ?それに、多分貴族で囮になるって奇特な人は・・・いないと思うよ」

「そりゃそうだし、気持ちは嬉しいが・・・」

しかし、関口の言うとおり、他に自分から囮になろうってやつは出てこないだろう。

「ぼ、僕だってこ、怖いけど、貴族ばかりが狙われてるなら、僕だって、一応位だけは頂いてるから──よ、夜這いはしないけど、その、ふ、普通に夜出歩いてて襲われる事だって有るかも知れないし・・・。だったら・・・旦那のお手伝いしたい」

夜這い以外で普通に夜出歩くって何してんだとは思ったが、関口の真剣な顔にその言葉は飲み込んだ。

「先生・・・ホントにいいのかい?」

「う、──うん」

「じゃあ、先生に頼むとするよ。決行は、明日の晩だ」

関口はうん、と頷いて明日の夕方また来ると帰っていった。
木場はそんな関口を見送りつつ、実はアイツ、ああ見えて結構肝が据わってるんじゃねぇのかとふと思った。


内裏から出た後、関口は自邸に戻らず、牛飼い童に告げて青木を見舞いに行く事にした。大怪我をしたという青木の事が心配だった。友達を喪いたくないという強い想いで胸が焼ける。だが反面、関口の中で昏い考えが湧き上がっていた。

───僕なら、喰われても、誰も困らない。僕も、楽に、なれる。

目の前の闇に吸い込まれそうになる。

───そうだ、一片も残さず消えてしまえば、もう何も───

だが、沈みかけた思考をあの男の声が引き止めた。

───関口。あんな真似はもうするな───僕は、もう手を離さないぞ───

「───京極堂──?」

先日、藤の花の精に取り殺される寸前の関口を命掛けで助けたのは、京極堂だった。あの時、自分は自らあやかしに命を差し出した。そして喰い尽くされようとして居たそのまさにその寸前で京極堂が救いの手を差し伸べたのだ。彼自身、命がけで自分を救ってくれたのだ。精根尽き果てて眠る京極堂の顔を思い出す。

───あぁ、そうだ、命を無駄にするなと言われたばかりじゃないか。

「ごめん、また怒られてしまうな」

苦笑する。

「木場の旦那にも迷惑掛けられないしな。大丈夫、ちゃんとやるから。絶対、青木君や木場の旦那の仇を取るんだ。喰われたりするものか」

自分に言い聞かせるように、関口は呟いた。

関口が帰った後、木場は食事を取り夜警の為に詰め所へ向かった。途中、昼間の京極堂を思い出して陰陽寮へ立ち寄る事にした。入ってきた木場を見て京極堂はいつも通りの声音で応対した。

「ヤア旦那、御用ですかい?」

分厚い書物を片手に、何か計算しているようだ。どうぞ、と茵に座るように勧める。さっきの剣幕など無かったかのような対応に、些か拍子抜けした木場だった。

「いや、お前さんがさっきこっちに来た用件を聞きに寄っただけだ」

「あぁ」

「これから夜警に行くんでな、また明日までもどらねぇから」

どっかりと床に腰を下ろして京極堂を見上げる。

「そうですね、僕の方から窺おうと思っていたのですが・・・わざわざすみません」

本を閉じて、京極堂はこちらへやってきた。木場は頭を掻いて

「いや、こっちが来るのが筋ってもんだろうが」

先程の件には触れずに居たかったので、それだけ言った。京極堂は僅かに口角を上げて木場を見たが、何も言わなかった。

「んで、何の用件だったんだい?」

見上げる木場の前に座り、京極堂は言った。

「例の鬼の件です」

木場の表情がきつくなった。鬼が関係しているという事で、検非違使は陰陽寮にも調査を一部委託している。先程来たのはその件だったらしい。

「で、何か分かったのか?」

「例の鬼の獲物は斬馬刀という武器を使用しているようです。とはいえ、我々の考える長身の剣ではなく・・・恐らく大陸の、大刀と呼ばれる物を使用していると思われます」

「大刀、か」

「大陸で言う所の・・関羽が使用したといわれる青龍偃月刀などが思い出しやすいでしょうか」

「ああ、なるほど」

「一太刀で馬や牛の足を折り、人の胴体を真っ二つに出来るという威力の武器だそうですが、可也の力が無いと扱うのが難しい武器です。壊れた牛車や遺体には、呪物が施されている事は無かったし、その痕跡もありませんでした。力任せに叩き割ったというのが正しいでしょう。そして殺された人間には食われた痕跡は有りませんでした。捕食する為に襲っている訳ではなく、他に目的があるようです。貴族の子弟だけを狙っていると言うのも理由があると考えられます」

「ふむ・・・」

「つまり、鬼の正体は人間ですよ、生きた、ね」

「!」

「そして鬼は一人じゃなく、手引きをしている者が居るのでしょう・・・。昼は賑やかな都も夜は闇です。ちょっとした仕掛けがあれば、人に魑魅魍魎の類の力かと思わせる事は容易いのです」

「人間か、ならこっちにも勝ち目は有るってもんだ」

「ただ、鬼自体は恐らくは武器を振り回して暴れているだけなのでしょうが、鬼を鬼たらしめている
者が側に居て、怪しげな仕掛けや方術を使う事には変わりありません。其れだけはご注意を」

「ああ、分かった。陰陽寮からも応援が来るようだし、今度こそ仕留めてやるさ」

「ええ、腕の立つ陰陽師を派遣しますよ。今回は僕が出るほどの事じゃないですからね。僕は此処暫く月食の観測の方で手を取られていますから。計算によれば今宵が月食のはずです。暦の正確さを立証しなければ、御帝の地位にも響きますから」

「難しい事はわからねぇよ。学者先生はそっちで頑張ってくれや」

笑って木場は立ち上がる。暦が朝廷にとって重要である事は分っているが、木場個人にはさほど重要でも無い問題だ。

「もう一人の先生も張り切ってるしな、俺も気合入れて行かねぇと」

「先生?」

「ああ、関口先生だよ」

京極堂の眉が顰められる。何か言いかけようとした京極堂に木場が先手を打った。

「まああの先生、ほっとけない所があるからついつい構いたくなるのも分かるがなあ。あんまし、過保護すぎるのも良くねぇぞ京極堂。あいつはあいつなりに考えてんだからよ。じゃあな」

どすどすと立ち去る木場の背中に声を掛けようとしたが掛けきれず、苦虫を噛み潰した表情で立ち上がり、再び本へ目をやった。
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翌日、夕方。
関口はいつに無く頑張って正装で内裏に来ていた。いつもの無精髭も今日は完璧に剃られている。香の香りも芳しく、時々意識して無いと猫背になってぽかんと口を開けてしまう様子を除けば、それなりの上流貴族に見えなくも無かった。

「き、木場の旦那、来たよ」

「おぉ、お、何だ今日は、いつに無くお貴族様じゃねぇか?」

「だ、だって、上流貴族の子弟ばかりだって聞いたから・・・鳥口君に聞いて頑張ってみたんだ」

「そうか、良い出来だぜ十分貴族の若様に見える」

「そうかい、よかった・・・」

木場の言葉に関口は安心したように微笑んだ。童顔の関口がそうやって微笑むとホントにどっかのボンボンに見える。いつも地味で猫背にならず、普段からこうしていれば良い物をと余計な口を開きそうに成るのを堪えた。そして、何が何でもこの男を護らねば、と思う。帝と陰陽師の顔が脳裏にちらついた。

「所で、あの馬鹿帝と京極堂には言ってあるのか?」

途端に関口は首を横に振って嫌そうに答えた。

「言うわけ無いよ、あの二人に言ったら何言われるか分かったもんじゃない。京極堂にはきっとねちねちと何だかんだ怒られて、殿中から出れなくて退屈で仕方ない榎さんなんか下手したら僕も混ぜろ!とか大騒ぎしかねないよ」

「まあそりゃそうだが・・・良いのか?」

「良いよ。・・・旦那も言わないでおくれよ?」

ちょっとふて腐れた様に言う。木場の脳裏には京極堂の顔が浮かぶ。あいつも報われねぇなあ、と内心溜息をついた。関口と京極堂を知る殆どの者が京極堂が関口に対して何かと心を砕いている事は知って居る。京極堂本人は帝のお気に入りであるからだと公言しているが、本当に良く知る者は、京極堂自身が関口に対し好意を持っているのに気が付いているのだ。知らぬはその好意の向けられた相手である関口本人だけだ。彼は京極堂が自分に助けの手を差し出すのは帝の命令だからだと思っている。自分が事典の編纂に必要な絵師であるから、色々と世話を焼いてくれているのだとそう思い込んでいるのだ。

───いや、京極堂だけにじゃねえな・・・きっと俺に対しても、誰に対してもそう思っているに違いねぇ。そして、違うと言ってもきっと信用しちゃあくれねぇんだろうな。

木場は少し寂しさを感じた。だが、あの二人より関口は自分に懐いているとは確信している。自然に兄弟分のような扱いになって居る所為だろう。上下関係でも臣下の関係と義兄弟の関係とは違う。

『───あ、あの、木場様、その、ぼ、僕も──木場様のこと、旦那って呼んでも良いですか?』

一生懸命な真っ赤な顔をして自分に許可を求めてきた関口。それは、自分に近付きたいと言う意志の表れだ。自分の威圧感のある見た目や態度を怖れる人間は多い。だが最もそういうものを怖れると思われた関口が、帝よりも陰陽師よりも自分に懐いている。豪快で神経質とは一見無縁な木場の、内面に有る繊細さを嗅ぎ取ったのか。不思議と関口は木場の鎧を潜り抜け懐に入ってくるのだ。また木場自身、関口を懐に入れても不思議と嫌悪感を抱かなかった。本来ならば最も自分は関口のような人間に嫌悪を抱くはずなのだ。だがこの情け無い男に寧ろ庇護欲が沸いてしまうのは未だに不思議で仕方が無い。

「そうか・・・ああ、分ったよ。先生。背中は任せろ」

この男なりに、他者に男を見せたいのだろう、と木場は思った。彼なりに自分や青木の事を思い遣ってくれているのだと感じた。自分を卑下し過ぎる彼が自信をつける良い機会かもしれない。危険を承知で自発的に彼が志願したのだ。男として成長出来るかも知れぬ機会を無碍に摘み取るのは同じ男としてやっては行けない事だろう。立ち上がろうとする子供を余計な親の過保護で抱き上げてはならぬのだ。

───無傷であいつらに返さないとな。やれやれ責任重大だ、全く。

木場は複雑な思いを抱きながら関口を屯所に案内し、自分は牛車の手配に向かった。

夜の帳が下り、やがて冷え込みが厳しくなる頃に夜半が来た。屯所で蕩けた顔をしてうつらうつらしていた関口を起こし、用意した牛車を戸口につける。

「よし、これに乗ってくれ。──頼んだぜ先生。とは言っても、座ってるだけなんだが」

「う、うん・・・」

牛車へとやって来た関口は矢張り怖いのだろう、表情は強張り、手を組んで握り締め、堪えている積りだろうがしっかり震えている。

「──やっぱ止めておくか?」

びくっと肩を揺らすが、関口は木場の腕に巻かれた包帯を見てごくりと唾を飲み込み、意を決したように顔を上げて言った。

「な、何を言うんだい、や、やるとも!!旦那や、青木君の仇を、と、取りたいんだ!」

「そうか、じゃあ頼んだぞ、先生。でも先生は囮だから別に戦う必要はねぇんだぜ」

関口の意気込みに苦笑する木場。普段怯えてばかりいるくせに、どうした事か。まあ、声が裏返ってるあたり明らかに強がりだと分るが、家に帰りたいと内裏の廊下の端で怯えて泣いていた頃を思うと目を見張る進歩だなと興味深く思った。

───京極堂と礼二郎に見せてやりてぇなぁ

木場は烏帽子を直してやりながらちょっとした優越感に浸っていた。

「うん。きっと、ぼ──僕におびき寄せてみせるよ」

「大した自信だな」

関口は懐から飴色の篠笛(しのぶえ)を取り出した。木場は目を丸くしてそれを見る。関口は気恥ずかしそうに

「役に立つと思う」

と言って、笛を懐に戻しじゃあ、と牛車に乗り込んだ。それを見届け、木場は

「よし、各自抜かり無いねぇようにな!何があっても先生だけは護れ良いな!!」

全員に向かって喝を入れると牛車を見送った。


ゆるゆると進む牛車。暗闇の中、関口は牛車の車輪の音だけの世界に、
自分一人だけ此処に居るのではないかと言う錯覚に陥りそうになっていた。
御簾ごしに見える明かりは唯一牛車の御者が持つ松明のみ。

「だ、大丈夫、木場の旦那もちゃんと付いてきてくれてる・・・」

牛の御者も其れなりに腕の立つ木場の部下だと聞いた。それにしても、どうして自分はこんな事をしているのだろうか。本当は怖くて仕方が無い筈なのに、自分でも信じられない。木場の怪我と、青木の傷ついて床に臥せっている姿を見た所為か。

昨夜、関口は青木の屋敷に見舞いに行った。青木は脇腹に傷を負ったが、幸い命には別状は無かった。其れを聞いて関口はほっとしたが、

「・・・戦えず悔しいです」

と呟いて痣や傷だらけで痛々しく寝込んでいる青木の手を取った時、居てもたっても居られなくなった。

「青木君──」

彼の悔しさと無念さが胸を焼く。木場の旦那の部下に怪我を負わせたという後悔の念が胸を押しつぶす。関口は、再び意図せず二人と同調してしまったのだった。

萎えそうになる気持ちを押さえつけるように、関口は守庚申の一件の折に手に入れた篠笛を取り出した。鞍馬まで京極堂と共に異界の道を抜ける途中、百鬼夜行の火吹き竹に襲われた。京極堂が調伏し、その本体を京極堂の師匠の神人が笛とするべく篠竹に変え、そして都一の笛師伊佐間に頼んで見事な篠笛に変えたのだ。この笛は関口の息にのみ反応し、その心の儘に音色を奏でると言う。守庚申では帝と共にその調べで穢れを祓ったと言う事で、帝から<ましら>と言う名を賜った。ましら、とは猿の事だ。関口にはぴったりだろうと榎木津が命名したのだ。

<夜に笛を吹けば、鬼が来ると云う。先立っては魔を祓う為に吹いたが、今宵は魔を呼ぶ為に吹くか>

篠笛<ましら>が語りかけた。最初こそ驚いたが今は害も無く、関口の為に尽くす様、京極堂と契約したからという安心感でその存在を関口も受け入れた。

「だって、絶対失敗したく無いんだ」

今回の事件が大っぴらにされていない以上、知らずに逢引に出かける公達が他に居ないとも限らない。自分じゃなくて他の所に行ってしまったら、せっかくの囮も無駄になってしまう。
笛を吹いていれば。自分の居場所を知らせることになるし、馬鹿な風流貴族と鬼も寄ってくるかも知れぬ。関口は一生懸命そう考えたのだ。木場にあんな顔をさせたくなかったから。

「昼間練習はしたけど、ちゃんと吹けるかな・・・」

<心配するな、先程の様に吹けば良い>

篠笛に励まされ笛を口に付けた。庚申の夜以降、今日の昼まで伊佐間に預けっぱなしだった。内部の塗装の為もあり預けていたが、今朝まですっかり忘れていたのだった。引き取りに行った関口は笛に嫌味を言われたが、なんとか宥めすかして、京極堂の名まで出して連れ帰ってきたのだった。しかし元々関口のために作られた笛である。主の為ならばと結局笛は協力してくれる事になった。

程なく、清浄な笛の音が通りに響いた。優しく、それは待ち人を思う切ない音色か、それとも
安寧に夜が過ぎるよう願う安らぐ音色か。半刻ほど、静かな夜の都に関口の笛の音が響いた。
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時は半刻遡る。陰陽寮から御書所へとやって来た中禅寺は、山内と会話をして居た。月食の観測に付いての考察と資料を借り受ける為に来ていたのだが、中禅寺は木場との会話を思い出して山内に問うた。山内は渡来人だ。大陸の知識はもとより、各国の書物や文物における博識を買われて御書所の管理を任されている。都の鬼の話をし、その凶器の話を山内に伝えた。

「ほう、斬馬刀とは珍しい武器を使うね」

「わが国でその様な刀を使うものは居りません。武器を扱う武家でも刀は主に太刀、薙刀、矛等を使います。私も実物を見たのは一度きりですが、あの牛馬の足の折れ方はわが国の武器のものではありませぬ」

「なるほどね。だとすると、唐との交易が出来得る官位の人間かな、もしくは、唐の人間か」

「お心当たりはありませぬか?」

山内は茶を優雅に飲むと、ふむ、と言い羽扇を軽くゆるりと仰ぎながら少し目を細めて考える仕草をした。それから徐に口を開く。

「────。明年上遣文林郎裴清使於倭國、度百濟行至竹嶋南望耽羅國經都斯麻國迥在大海中、又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州疑不能明也。」

中禅寺は山内の唐の言葉を目を閉じて聞いていたが、聞き終わると同時に目を開け、膝を打った。

「『隋書』の「列傳第四十六 東夷 倭國」ですね。───そうか!師父、ありがとうございます」

中禅寺は立ち上がり、場を辞する為に礼を執った。

「いや、君の博識には相変わらず恐れ入るよ。───もう帰るのかい?今度はゆっくりして行き給え。そうそう、関口君にも宜しくね」

山内は少々寂しそうに中禅寺に声を掛けた。用が済んだらもう帰ってしまうのかいと心の声が聞こえてきそうだ。

「はい、この件が片付きましたら今度はゆるりと古書の指南を受けたいと思います。───関口君も今度は連れてきます。それでは、師父。これにて」

中禅寺は踵を返すと御書所を出た。外に出た折、空を見上げる。先程山内が唐の言葉で諳んじた文言を呟く。

「翌年文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋(現在の竹島?)に到り、南に耽羅国(現在の済州島)と都斯麻国(現在の対馬)を経て大海に出、東に一支国(現在の壱岐?)、竹斯国(現在の筑紫)、また東で秦王国(現在の=豊前・豊後?)へと至る。その人々は華夏(現在の中国人)と同じ様で、何故夷州(野蛮な国)とするのか不明也──か。流石我が師父です。───しかし関口君。この借りは大きいぞ。師父は答と引き換えに君を連れて来いと言ったのだからな」

中禅寺は眉間に深い皺を刻みながら歩を早めた。

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再び関口の牛車へ戻る。 
不意に、牛車の牛の足が止まった。御者が「おい、どうした?おい?」と牛を叩く。
直後、「うわ・・・ッ!!」と叫ぶ声がして、牛が断末魔の叫び声をあげてどう、と倒れた。
牛車が横倒しになる。関口も牛車の中で一緒に横転した。

「うぁあああっ!?」

笛を握りしめたまま、しこたま半身を打ちつけた。

「い、痛・・・」

何とか体制を整え、牛車から這い出す。衝撃で烏帽子も外れてしまったが、それ所ではない。

「だ、大丈夫かい・・・?」

御者のほうへ声を掛けると、御者は青白く光る炎に囲まれ刀を振り回し翻弄されていた。

「ひ、人魂ッ・・・!?」

関口の背後に、異様な気配がする。背筋に冷たい物が走った。

『・・・笛・・・』

「ひっ」

恐る恐る振り返ると、巨大な刀を持った鬼が居た。木場よりも大きな体躯。ぼさぼさの長い髪。暗闇の中で光る瞳。

「・・・・ぁ、あぁっ・・・」

恐怖で悲鳴すら出ない。
鬼と目が合った。笛を握りしめたまま、体が硬直する。月明かりが、光を背にする鬼の影を更に濃くした。鬼が自分へ手を伸ばす。もう駄目だ、そう思った。引き裂かれて食われてしまう、そう思った矢先、

「それ以上手ぇ出すんじゃねぇ!!」

と木場の声が響いた。

「っ、だ、だん、な・・・!」

助かった、と思った。しかし。

『・・・五月、蝿い・・・』

「間合いに気をつけろ!!」

取り囲んだ検非違使達を鬼がその大刀で薙ぎ払う。幸い、京極堂の情報でその武器の届く範囲を前もって計算していたお陰で振り回された大刀は検非違使たちを傷つける事無くかわされた。

「だ、旦那・・・ッ」

悲鳴を上げかけた関口を鬼がすばやく小脇に抱えた。急に体が宙に浮き、太い腕に担がれている事に
気が付く。

「ひっ!?」

「関口!!」

木場が刀を振りかざして鬼に突進しようとした時、蒼い鬼火が木場を襲う。その先には、鬼の面装をした別の者が。

「ち、やはり仲間が居たか!」

その隙に鬼は関口を抱えて走り出した。

「ま、待ちやがれ!!」

木場は追おうとしたが、突如として煙に巻かれた。闇の中、更に煙に巻かれ回りの検非違使が恐慌に陥りかける。

「落ち着け!!ただの煙だ!!くそぉ、関口!」

目に煙が入り酷く沁みて開かない。しかしこのまま巻かれてしまう訳には行かない。
煙に突っ込みそのまま突進した。
かすかに見える青白い燐光。その先の鬼に向けて刀を振り下ろす。

「うわぁあああ!!」

煙幕を物ともせず突っ込んできた大男に不意をつかれ、鬼は崩れ落ちた。だが殺気がまだ消えていない。他にも居るのだ。

「関口!!あの方角は・・・足に自信が有る奴は追え!!羅城門だ!!残りはこの場を!!」

木場は後を部下に任すと、煙のせいで目がまだ開かぬ自分も関口を追う為に、馬を取りに向かった。暗闇が濃くなりつつ有る。

今夜は月食だと京極堂が言っていた。魑魅魍魎が跳梁跋扈する闇夜が訪れようとしている。

「馬鹿野郎、そんなもんで腰抜かして居られるか!!」

───関口を早く助けねぇと

木場は馬の手綱を掴むと一気に跨った。その木場の前に、鬼火が舞う。

「ちっ、鬱陶しい野郎だ」

暗闇に浮かび舞う鬼火を霞む目で睨み付けながら、木場は呻いた。

一方、関口は木場の読みどおり羅城門へ連れ去られていた。
恐ろしさで悲鳴も出ない。木場の旦那達はどうなったのだろう。
後方から何人か追いかけては来てくれているようだが、圧倒的な差が開いている。これでは・・・。

不意に、鬼が関口を下ろした。暗闇で良く分からないが石畳の上に降ろされたらしい。そしてどかりと胡坐をかいて鬼も関口の正面に座った。どうやら今すぐ食うつもりでは無いらしい。しかし命の危機が去った訳ではなく、諤諤と震える関口。

『笛』

「ぇ・・・」

鬼は関口の持つ笛を指差す。

「ふ、笛、欲しいのかい?」

差し出すと、片手で押し戻した。そしてその手を自分の口元に持って行くと、口の横で笛を吹くように動かした。

「ふ、吹けというのかい?」

笛を口元にやると、鬼はにかっと口を開き、歯を見せた。何だろう、笑ったのか?・・・?不思議な感情も感じつつも、やはり恐る恐る関口は笛を吹いた。鬼を鎮める音を。鬼は黙って聞いていたが、やがて肩を震わせて泣き始めた。

『ハオテイ──』

「!」

関口は笛を止めた。そして泣く鬼をじっと見詰めた。鬼が手振りで笛を続けるように頼むので、おずおずと笛を吹き始める。吹きながら、関口は鬼を見た。そして、絵巻に出てくる鬼かとばかり思っていたが実は人間である事に気付いた。

────人間、人間だ。鬼じゃない。

天を突く様に大きく見えた姿も、こうしてみれば大柄では有るが普通の人間だ。なぜ、彼は鬼のように都で暴れていたのだろう。そしてどうしてこんなに泣いているのだろう。恐怖は消え、変わりに泣く鬼への憐憫の情が湧き出した。<ましら>が関口に語りかけた。

<主、この者は何かを失って強く悲しんでいる。だから主の慰めの調べと同調しているのだ>

───何かを失った?

関口は笛を吹き終わり、鬼に声を掛けた。

「ねえ、どうして泣いているんだい?」

鬼が顔を上げる。そして関口を見て哀しげに顔をゆがめた。

『ハオテイ』

「はおてい?」

『ワタシは、帰りたい、のだ』

「帰る?」

『ワタシは、』

言いかけた言葉は続かず、悲しげな顔は一瞬で引き締まった。鬼は追っ手の気配を感じたのか、背後を振り返った。

「し、神妙にしろ鬼よ!!」

「で、でて来い!」

「灯りを、灯りを持て!」

羅城門の外にて息を切らせて陣を組み、剣や弓を構える検非違使たちが居た。ゆらりと立ち上がり、悠然と歩を進める鬼。片手には大刀を軽々と。この巨大な刀と人一人担いで都の中心からあれだけ走って来たというのに、彼はまだこんな刀を片手で持てる力を有しているのだ。関口はその力に矢張り鬼を視た。関口と二人で居た時には消えていた殺気が再び噴出している。彼らを殺す気だ。途端に忘れていた恐怖が一気に体の自由を奪う。

「だめ、逃げて、君たちじゃ無理だ」

関口は恐怖で固まりながら、それでも検非違使たちに叫んだ、が、声はかすれてしまい、届いたかも分からない。
その時だった。

検非違使達から悲鳴が上がる。鬼火が彼らを取り囲み、翻弄されて松明を振り回した検非違使の腕が飛び、血飛沫が当たりに飛び散る音がした。同時に絶叫が羅城門に響き渡った。

「ぁ、ぁ、」

関口は目前で起きた惨劇の衝撃で声を失う。検非違使たちは逃げる者、立ち尽くす者、辛うじて踏みとどまる者、其々が矢張り声を失って、転げまわる腕を失った仲間を為す術もなく見詰めていた。其処に声が響く。関口の側にいるこの鬼ではない。別の場所から聞こえて来た。

『時は満ちた。月は喰われ、我が呪は内裏に満ちる。愚かな小物共め、命惜しくば逃げるが良い。逃げ帰り都中に広めよ、次代の帝を迎える準備をしろと!』

───じ、次代の、帝・・・?!え、榎さん、榎さんに何かする気なのか!?

榎木津は内裏から出ない。ましてや夜這いなどする筈も無い。なのに何故、鬼は貴族の公子を襲うのだ。榎木津を狙っている訳ではないのか!?そ、それにこの間も鞍馬まで行って榎さんへの呪いを返したんじゃないのか??

『朝廷を怨む者は後を絶たぬ。都を一歩出たなら、怨嗟の声が響いているのだ。我々が主らに従う義理は最早無い。怠惰で堕落しきったこの国に未来は無い。無能な帝の首を取り、無知なる民を率い、<我らが一から作り直そう>。その資格を有しているのは我々だ!』

「そ、そんな、え、榎さん」

関口の声になら無い呟きは誰にも届くはずがなかった。だが、

『蝕の前の最後の贄だ。首を圧し折り、血を捧げよ!』

羅城門に響き渡る鬼の声。贄とは、自分の事だと関口は悟った。今まで殺されてきた公達達は喰われたのではなく、捧げられたのだと理解した。生贄にするならば其れなりの地位と名誉の有る者の方がその効果は高い。そして、有力者の子息を屠ると言う目的も達せられる。目障りな有力者の後継の芽を摘んでおけば後々自らが優位に立てる。呪を掛けるだけではなく、実利に沿って計画的に公達を殺めて来たのだ。鬼の仕業と見せかければ、検非違使からの目を逸らす事もできる。

「う、ぅ──」

関口は声に従いゆっくりと振り向いた鬼の顔を見る事は出来なかった。涙で目が霞み、ぼやけた暗闇だけが映っていた。

──あぁ、僕は、殺されるのだろう。

だが、その瞬間は来なかった。がしゃり、と斬馬刀が石畳に当たる音がする。気配で、鬼が背後に振り向いたのだと分った。そして、鬼の声では無い声が聞こえた。

「『妖怪、去』」

低いが良く通る声。聞き覚えの有る声だ。でも、意味が分からない言葉だ。鬼はその声に反応して何事かを言ったが、関口には聞き取れなかった。再び声がする。今度は理解出来た。

「我が言葉が分かるならその者を置いて去れ」

月が出てきた。その月明かりと、検非違使たちの持つ松明に照らされて関口の良く知った声の主が現れた。鬼がまた何言か呻く。関口は、何故彼が此処に居るのか理解できなかった。果たして彼なのかも、混乱した頭では理解できなかった。

「・・・・きょ、ごく、ど・・・?」

「『他我的・・・』」

異国の言葉をなにやら口にしているのか呪文を唱えているのか関口には分からなかったが、鬼は明らかに京極堂の言葉に反応している。

「『我是真的』」

ニヤリと笑い、京極堂はこちらに一歩踏み出した。体格こそ鬼に及ばないが、その威圧感は尋常ではない。こっちも鬼みたいに怖い、と関口は思った。

『方士・・・オマエは分かる、のか』

鬼が片言で言う。京極堂は其の言葉に確信を持った表情で頷いた。関口には何がなんだか分からないが、彼らは会話が一応成り立っているようだ。京極堂は鬼の言葉も操れるのか。不意に大鬼が構えていた刀を下ろした。がしゃり、と鉄が石床に当たる音が響いた。

「場合によっては、保護出来るかもしれない」

と関口をちらりと見て京極堂は言った。大鬼からは殺気が消えていた。

「ほ、ほご・・・」

「君ももう気が付いているだろうが彼は鬼じゃないよ、人間だ」

京極堂はこの鬼、いや人を助ける気なのだろうか。出来るのだろうか。でも、出来るなら。
彼は確かに怖いけれど、笛の音をじっと聞いてくれていた。僕を傷つけたりはしなかった。哀しくて泣いていただけだ。そりゃ、沢山の人を殺したけれど、でも、彼は本当は悪人じゃない。そんな思考がぐるぐる回る。京極堂が鬼へ手を差し伸べた時、不意に朗々とした声が響く。鬼が身体を硬直させた。呪文らしき言葉と共に、銀髪の別の鬼が姿を現した。京極堂は差し出しかけた手を下ろし、袖の中で腕を組んだ。

「漸く出てきましたね。月食に乗じて血の結界を作り、都に疫神を召還し、その混乱に乗じて政権を奪取しようとした事は既に分っています。既に先日結界の一部は破壊したと言うのに、月食と公達の血の穢れに乗じて再度挑戦するとは執念ですね」

京極堂が言う。鬼が呟く。

「陰陽師め───西の結界を破壊したのはお前か」

「西の守りを固めよ、とお告げがありましてね。先日調べた所、人形が埋まっておりましたので掘り起こし、解呪したのですが、この度の件が気になり、今一度調べさせたら今度は人柱が埋まっておりました。──罪な事をなさいますね」

「お前達が触れなければあえて殺す必要は無き者だった。それにお前達が暴かなければ無駄死にではなかった物を───!」

鬼の声からは怒りが滲んでいた。言葉と共に青い燐光と式が飛ぶ。黒衣の陰陽師は「逐!」と言い放ち、扇で式を弾いた。

「人殺しを他人の所為にしないで下さい。急場凌ぎでお身内の誰かを人柱に立てたのでしょう?大儀の為にと命を投げ打たれた人柱には同情より哀れに思いますよ。けれど、その大義は叶いませぬ。呪詛を暴き帝を、都を守る事が私の仕事なのです。やれやれ。僕は、鬼は視て封じても人死には見たくない。それは僕の仕事でも趣味でもない。政治に興味も無いし、誰が天下を取ろうが実の所どうでも良いんだ」

黒衣の陰陽師は馬鹿馬鹿しいと言う態度で、言葉を返した。

「・・・・ならば立ち去るが良い。これ以上関わらねば御主には手を出す理由は無い」

「残念ながら、そういう訳には行かないのです。其処の彼が貴方方に殺されるのは流石に困る。食う気は無くても生かして返す気は無いでしょう。人違いだ、贄の資格に非ずと言っても聞く耳もお持ちで無さそうだ。一応言いますが、彼は公達とは名ばかりのいわば囮ですよ。一応僕の知人で友人の愛玩動物とは付け加えておきますが」

「・・・・きょ、きょ、君って・・・」

───なんだか無性に寂しくなった気がする。こんな所でまで知人扱いする事無いじゃないか──。

「それにね。僕は一寸ばかり怒ってるんだよ」

関口の言葉は無視して鬼に向かってニヤリとも付かない表情で言う。

「今日は絶好の月食の日だった。僕は前からこの観測を楽しみにしていたと言うのに、其処の好奇心旺盛な三文絵師がこの件に首を突っ込んだばかりに、こうして僕が出てこざるを得なくなってしまったじゃないか。ああ、もうすっかり月が出て来てしまったよ」

そう言いつつも、印を結んでいる。関口は、君に来てくれって頼んでないじゃないか・・・もごもごと口の中で言った。陰陽師は察したのかこちらをぎろりと睨み、その凶悪な視線で関口は震え上がった。

「僕はね、僕の物が僕以外の手で傷つけられたりするのが許せないんだよ」

彼から噴出すように周囲を囲む気は、恐ろしいほど冷たい。若い検非違使たちは味方の筈のこの黒衣の陰陽師にさえ怯え始めている。

「貴方方の相手は今や一豪族如きでは手が出ないやんごとなき高貴なお方だ。今は最早時代が違うのです。貴方方が重宝されていたのは今はもう遥か昔。厩戸皇子はもう居ないのですよ、織作伊兵衛殿。いや、羽田伊兵衛殿。そして貴方が本来名乗るべき姓は<秦>氏(うじ)ですかな」

「どうして、それを───」

「斬馬刀なんて持っている人間は、都にそうは居ませんよ。その手の知識を有するのは其方の知識が豊富な人間です。とは言え扱えるかはまた別問題ですが。とりあえずは斬馬刀の知識を有し、それを入手できる人間を洗えば、渡来人である確率が高い。しかし現在、わが国は鎖国状態にあり、其れなりの家柄でなければ御上の目を掻い潜り唐と交易する事は出来ますまい。この国に帰化しなおかつ其れなりの家柄であり、そして、今上に少なからずの恨みを持つ者といえば、貴方しか居りませんでした」

鬼は名を言われ、言葉を噤んだ。

「その大鬼を操れたのは貴方が彼と意思疎通が出来たからだ。嵐に遭い、浜に打ち上げられ命は取り止めたものの記憶を失った彼に唯一語り掛けられたのは貴方だけだった。そして記憶が真っ白だった彼は貴方の手駒として鬼の業を刷り込まれてしまった。記憶はなかったが戦い方は体が覚えていた。ですから操るにはまさに打って付けの手駒だったのですよ。だが、それも此処までです。其処の三文絵師の笛の音を聞いて正気に戻った彼は、もう貴殿の言葉には従うまい」

銀髪鬼──羽田を睨み付け、京極堂は言い放った。しかし、羽田は不敵に笑う。

「ほう、我が催眠を破ったのはその男か。ならば──<お前>を殺してしまえば良い。他の者もその後皆殺しにして、新たに刷り込んでしまえば良いのだ」

銀髪鬼は京極堂ではなく───<こちら>を見た。京極堂ではないのか。<お前>というのは・・・・。鬼と目が合う。ああ、<僕>の事なのか。

その瞬間、羽田が式を放った。まっすぐに関口に式が襲い掛かる。

「関口・・・!!」

京極堂が式を放つが、間に合うかどうか。関口は自分の身が式に食い裂かれるのを覚悟した。
・・・が、その瞬間は来なかった。どしゅ、という鈍い音がして、がしゃん、と言う金属音が響く。
「ぐぅ・・・」という低いうめき声と共に関口は体に重圧を感じた。

「ぁ・・・」

自分に覆いかぶさっているのは、大鬼だった。背中に羽田の式が喰らい付いている。がしゃん、という音は、大刀が石床に落ちた音だった。次の瞬間、京極堂の式が大鬼の背に食らいついた羽田の式を粉砕した。

「お、鬼さん・・・ど、どうして・・・」

『笛・・・あり・・が・・・ハオ、テイテイ・・・』

鬼は苦痛に顔を歪めながら、それでも口角を上げて笑顔を作った。涙。目に涙を浮かべていた。

「き、君は・・・」

『ウォ・・・アイ・・・』

脳裏に、映ったのは笛を吹く異国の少年。少年は此方に気が付き笛を吹くのを止めると、微笑んで───<彼を>、呼んだ。
関口はその瞬間。鬼と───記憶の少年と同化した。

「あぁ・・・」

全身に押し寄せる哀しみに涙がこぼれる。鬼は、関口の頬に口付けて、そのまま力を失い、倒れた。

「あぁ、あああ・・・いやぁあああ!!!!!大哥(ダァグォ)ーーーーッ!!!」

関口が半狂乱になって叫ぶ。羽田が何が起きたか信じられないというように呟き、京極堂は苦渋の表情でその光景を見ていた。

「・・・何故だ、なぜ庇った!!?あの小男は何者なのだ・・・!?」

「・・・彼は、<彼の弟>をかばったのですよ」

「弟・・・!?」

「彼には国に弟が居たのでしょう。彼はそれを思い出したのです・・・関口君の笛の音で」

「くそ、馬鹿な!!・・・笛の音如きが我が術を破り、なおかつあれを味方にするなど・・・おのれ、次は、其の男もお前も必ず消してやる」

形勢が全く逆転した銀髪鬼は撤退を仕掛けた。しかし、京極堂はそれを許さなかった。

「そうは行きませんよ・・・貴方に次は有りません。───縛!!」

「なに・・・!?」

その瞬間、羽田は動きを封じられていた。京極堂は凶悪な表情で羽田を睨み付け言った。

「言いましたよ──僕のものを傷つけられるのは許せないと───」

陰陽師から黒い気が噴出し、彼を取り巻いた。低く良く通る声が響き渡る。羽田は逃げようともがくが呪縛から逃れられなかった。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前・・・逐怪破邪、急々如律令!!」

その瞬間、大鬼が持っていたあの大刀が石床から浮き上がり羽田に向けて勢い良く飛んでいく。そして、大刀はどすり、と言う鈍い音と共に羽田に突き刺さった。

「ぎゃあああああ────!!!!!」

血飛沫が当たりに飛び散った。銀髪鬼の断末魔の叫びが響き渡る。検非違使達は思わず耳を塞いでいた。

「・・・まだ人であるならば、生きています。完全に鬼と成り果てた者ならば───」

淡々と、呟く。

「後は貴方方の仕事でしょう」

陰陽師に怯えつつも検非違使たちが、関口と羽田のほうへ行き、検分を始めた。
不思議な事に、大刀は羽田の体から消えている。大鬼が落とした場所に、大刀はそのままあった。更に、あれだけ飛び散ったはずの血飛沫も綺麗に消えていた。
あの大刀は本物ではなく呪法だった、と知り、また検非違使たちはこの黒衣の陰陽師の法力に身震いした。この様な男が帝に付いているのかと、敵に回しては命は無いだろうと想像し帝の政敵の末路を思うと我が事では無いのに恐ろしくなった。
一方関口は、笛を抱えたまましゃくり上げている。まだ同調が切れていないのだ。側の大鬼の遺体は検非違使がどかして検死を始めていた。

「兄さん、兄さん、死なないで、一人にしないで、にいさん・・・」

京極堂はつかつかと泣きじゃくる関口の所へやってくると、

「関口君」

と、彼の前に立ち、見下ろして言った。ぼろぼろと涙を流しながら子供のように関口は泣きじゃくっていた。交流しかけた相手の死を目の当たりにした衝撃で完全に同調している。引き戻さねばこのまま泣き続け、次第に精神も肉体も消耗して生きながらに彼岸へと渡ってしまうだろう。

「兄さん・・・兄さん・・・」

「関口君!──巽!!」

両肩に手を置き耳元で名を確りと呼ぶと、関口は肩を震わせ、はっとした様に泣き止んだ。

「終ったよ、関口君」

中禅寺のへ視線が動き、再び目から涙が流れた。

「きょ、きょうごくど・・・ぼくの、ぼくのせいだ・・・ぼくの・・・あの人が・・・」

「彼が死んだのは君の所為じゃない」

「で、でも・・・!」

「事実を曲げるな。彼を殺したのは銀髪鬼だ。彼は君を庇って死んだがそれは君の所為じゃない───彼の意思だ。感謝しこそすれ、自分を責めるのは無意味だ。君が悔やみ続けていたら彼が浮かばれないだろう。それに───敵は僕が討ってやったじゃないか」

口角を上げて視線を羽田のほうへ向ける。関口も視線を追ってそれを見た。仮面を取られ驚愕の表情で固まっている鬼の顔──仮面の内も、既に鬼の様相と化して居た──を見て、関口は「ひっ、」と声を上げた。涙が止め処なく零れて体が震えている。羽田から目を背け、京極堂を見るがその目は怯えていた。京極堂はその様子を見て遣る瀬無くなる。

「・・・・僕が怖いかい?」

先程からちらちらと検非違使たちの視線を感じていた。

──ああ、まただ。皆僕を怖れている。術を使った後の僕を取り巻くこの恐怖と畏怖の念、何時まで経っても慣れない物だな。

関口も自分を見上げ怯えて笛を握り締めた儘がたがたと震えている。

───そんな目で見ないでくれ、君だけは。

「・・・・僕が怖いなら、無理しなくて良い、他の者を付けよう」

京極堂は、ふん、と鼻で自虐的に笑うと関口から離れ、くるりと背を向けて歩き出した。門から出たところで、

「ぁ、ま、まって・・・」

消え入りそうなか細い声が陰陽師の耳に入る。聞き逃すはずがなかった。その言葉に立ち止まり、振り向く。

「まって・・・置いて・・・かないで・・・」

泣きながら、しゃくり上げながら必死で声を絞り出している。雨の中、見捨てられた子供のようだった。

「もうすぐ木場の旦那も来るよ、それまで待って居給えよ」

「きょ、きょうごく・・・どう、まって・・・」

眉間に皺が刻まれる。逃げるように立ち去ってしまいたいと言う思いと、自分を呼ぶ関口の声に抗えない自分。

「おいて、いかないで・・・きょ、ごくど、ぅ・・・」

関口が自分を呼んで泣いている。もはやそのまま立ち去る事は出来なかった。

「いつまで泣いているんだい、大の男として恥かしいとは思わないのか」

今すぐにでも抱き締めてやりたいと思う反面、自分に怯えている関口の側に居たくない、見たく無いと叫ぶ心。それを隠す為に苛苛した声音になってしまう。それでも、結局関口の側に戻ってきていた。

「僕は疲れた、早く帰りたいんだがね。もう僕に用は無いだろう?何故呼び止めるんだい」

陰陽師の声に検非違使達が怯える。ますます苛苛する。

──怖いくせに何故僕を呼ぶのだ。怯えているじゃないか。僕は君にそんな目で見られたく無いんだ。

「こ、腰が、抜けて、立てないんだよ・・・・て、手を貸してくれたって良いじゃないか・・・」

関口はそんな京極堂の心など知る由も無い。黒目がちの瞳を潤ませて、情けない表情で京極堂を見上げる。

「僕が怖いなら無理しなくて良いと言っているのだ。木場の旦那がもう直来ると言ったろう。馬で家まで送ってくれるだろう。その方が君の為じゃないか」

京極堂の言葉にへたり込んだまま動けない関口は泣き顔のまま口を尖らせて懇願した。

「こ、怖いって、な、何だよ、き、君の顔と、せ、説教が怖いのは、いつもの事だろう?そ、そもそも君は、ぼ、僕を助けに来てくれたんじゃ、な、ないのか?せ、説教は幾らでも後で聞くから、お、お願いだからこ、こんな時に意地悪言わないでおくれよ・・・た、頼むよ、京極堂───」

「───」

僕が怖いのかと聞いたさっきの問いの答を今、この男は言ったのだ。彼が怯えていたのは陰陽師の自分では無かったのか。京極堂は目を見開いた。手を貸して起こしてやる。本当に腰が抜けているようだ。膝に力が入らずに足がおぼつかず、京極堂に倒れこんだ。抱きとめてやれば全身が震えている。思えば今はもう霜も降りる時期だ、恐怖に寒さが相まって冷え切ってしまっている。此の侭では風邪を引いてしまいかねない。

「ほら、確りし給えよ。牛車までは暫く歩くぞ」

「う、うん、ありがとう」

「歩けるかい?」

「うん、な、なんとか」

肩を貸す京極堂にしがみ付きながら、関口は何とか歩き出した。そこへ

「関口〜!!!無事か!!!?」

甲高い大声。検非違使たちを引き連れた木場だ。後ろには四、五人ほどの縛られて連行されている銀髪鬼の仲間であろう者達が居た。木場は無事な様子だ。関口は良かった、と安堵した。

「木場の旦那ッ!!!」

「終りましたよ旦那」

木場は連れて来た検非違使の一団を検視と検分に行かせ、馬から下りると馬を部下に任せて京極堂と関口の元へやって来た。

「そのようだな、羽田は・・・?」

「彼はまだ人であれば息はあるでしょう。大鬼は、可哀相ですが」首を横に振った。

「でも、最期に人に戻って逝けた。本望でしょう」

関口を見やって、静かに言った。

「そうかい・・・後は俺達の仕事だな。それにしても、羽田と言えば豪族の一派じゃねぇか。礼二郎も敵が多すぎるぜ。あんたの情報で羽田の屋敷の方も既に押えた。織作の方はややこしいな。婿養子が勝手にした事と先手を打って被害届けを奏上して来たそうだ。あそこは色々と貴族間の繋がりがあるからなぁ、連座は難しいようだぜ。下手に手を出せねえのが現状よ」

「今上がと言うよりは、帝である以上の定めでも有るんでしょうね。それに耐えられるか否かですよ。まあ、あの帝なら屁でも無いんでしょうけどね。まあ、今回の事で暫くは羽田と織作、両家の息の掛かった貴族達も大人しくなるでしょうよ」

「で、でも、こんな事ばかり続いたら、い、幾ら榎さんだって参ってしまうよ───」

関口が京極堂と木場の顔を交互に見ながら言う。榎木津の事を心配しているのだ。

「ああ、だから俺たちがついているんだ。それよりも先生、歩いて帰れるかい?きついなら馬で送ってやろうか?」

関口を見て木場が言う。関口は覚束無い足取りで京極堂の肩を借りていた。足元がかくかくと震えている。心底恐ろしかったのだろう、無理も無いと木場は内心思った。隣の何事も無かったような顔をした陰陽師とはまるきり対照的だった。

「う、ううん、有難う旦那。でも、忙しいのに悪いから・・・。ふ、震えが治まるまでは、京極堂に手伝ってもらって帰るよ・・・」

関口の言葉に京極堂は眉間に皺を寄せる。木場は、そんな様子を苦笑した。

「なんですか」

京極堂がむっとした様に言う。

「いや、あんたも大変だなと思ってな」

可笑しさを噛み殺して言う。

「ええ、本当に全くですよ。迷惑この上ない」

木場は京極堂の答えに本当に噴出しそうになった。

───吐き捨てるように言いつつも、そのくせこの天邪鬼は隣の足元覚束無い男を確りと支えてやっているじゃないか。こいつの性格なら迷惑ならさっさと俺に押し付けるだろうに。

「まあ、とりあえず仲良く帰れよ。また明日、事情を聞くからな。関口先生も良く寝てくれ」

「う、うん、旦那・・・」

関口は何か言いたそうに見上げる。木場は関口の肩に手を置いた。

「頑張ったな、先生」

その言葉に、関口は安堵の表情で涙をぬぐった。京極堂は、ではこれでと木場に言うと、関口を促して歩き出した。木場も、おう、と片手を挙げると羅城門へ歩いていった。


「・・・まだ震えているのかい」

牛車まではもう少しだが、関口の足の震えが止まっていないのを京極堂は気になって仕方なかった。肩を貸しているのが嫌なのではない。自分が護ってやっているというのに、未だに震えられているのが嫌なのだ。

「そりゃ、あんな怖い思いしたんだぞ・・・?君は慣れてるから平気かもしれないけど、僕は本当に死ぬかと思ったんだ」

「君が安易に首を突っ込むのが悪いんだろう?なんだって毎回身の程知らずなことに首を突っ込むんだ」

「うぅ、だって木場の旦那の力になりたかったんだ・・・それに青木君だって大怪我して・・・」

「・・・・へぇ、そうかい。それで僕にも言わないで木場の旦那と組んでこんな真似したって訳かい」

「だ、だって、君に相談したら何言われるか分かったもんじゃないじゃないか」

「当たり前だ、君にそんな真似させられるわけ無いだろう?精々足を引っ張って被害がでかくなるだけじゃないか」

「だって、でも・・・」

哀しげに俯いた。

「まあ、笛を吹いてくれたのは結果的に良かった事にはなるんだろうね」

「・・・?」

「君が笛を吹いた事で、あの大鬼は失った記憶を取り戻した」

「記憶・・・?」

「あの大鬼は、正真正銘大陸の人間さ、今はあちらの王朝は唐か」

「唐・・・」

「大方嵐かなんかでこの国に流れ着いたんだろう、その時記憶を失ってしまった。頭が真っ白になっていたあの男は、それをあの銀髪鬼──羽田に拾われて良い様に操られてたんだろうな、かわいそうに。羽田は異国に流れ着いたあの男を鬼に洗脳し、自分の駒として使っていたのだ。斬馬刀を操れたのは元々武将だったからだろう。謀反を起すべく武器を密かに密輸入していたのだ。たまたま、彼の得意とする武器が手に入ったのだろう。あとは都を混乱に落としいれ、その隙に乗じて帝の帝位を剥奪し則る算段だったんだろうな。───まあ、この手の話はよくある話だ。羽田殿だけではない。北には蝦夷の残党も居る。南も然り西だけではない東にも脅威はあるのだからね。この都は、ある意味包囲されているのだよ。だから油断を怠ってはならないのだ」

「───羽田殿って、結局」

「彼は遠く西の国から来た一族の末裔だ。始皇帝の子孫とも名乗っているし、波斯(現在のペルシア)から来たとも言われている。彫りが深い顔立ちから見れば波斯説もあながち妄言ではないかもしれないな。彼の先祖はその昔、厩戸皇子の補佐として重要な地位に居たのだ。商材を築き、この平安京の造営にもその財力を発揮したそうだ。だが、時代が下がれば一族も分派して行く。時代の流れに沿って血が薄くなっていく者たちも居るのだよ。先祖の功績や、己の血の意義も薄れていく。彼はそれを食い止めたかったのだろうな」

「良く分らないよ、僕には───。そんな事で、あんなに沢山の人を殺す必要が有るの?あの鬼だってただ操られてたなんて、酷すぎるよ───」

───失ったのは故郷と、家族。そして人としての人生。僕も同じだ。彼と同じく僕も記憶を失い、いまだ戻っていない。ならば僕は誰に操られているのだろう。僕は───

関口の声が震える。今にも崩れ落ちそうな関口を支える腕に力を入れ、京極堂は話を続けた。

「───弟が居たと、彼は言っていたよ。笛の名手だったそうだ」

「君の笛の音が、彼の記憶を取り戻したんだ。そして、彼はあの時、君と同時に<弟>を庇ったんだ。愛する弟をね。彼の死に顔は満足そうだった。君に最期に何を言ったのかは判らないけどね」

「ふえありが・・・はおて・・・うおあ・・・だったかな・・・唐の言葉はわからないよ」

それを聞いて、京極堂は複雑な顔をした。

「後半が唐の言葉だな。笛をありがとう、可愛い弟、私は君を」

「君を?」

「・・・・」

「なんだよ、君をどうしたんだい?」

「全く君は油断なら無いよ」

大仰に溜息をつきながら京極堂は関口を睨みつける。

──『我愛君。君を愛している』 <弟>が肉親とは限らぬ。大陸では義兄弟の契りを交わす事が多いからだ。年月と海を越え、忘れていた彼の記憶は関口に因って還って来た。彼岸を彷徨っていた彼の思いも記憶を取り戻すと共に、昇華されたのだろうか。

「は?」

「君は、自分が思うより他人に影響を与えているのだと自覚した方が良い」

「え?」

「関口君、君の目には僕はどう映っているのだろうね」

「は?」

関口は会話に付いていけてない。京極堂は立ち止まった。

「僕の力を見ただろう、陰陽師の。検非違使たちを見たろう?僕を見て怯えていた。何時もそうだ──皆、僕の力を見ると怖れを篭めた目で見る。僕らの仕事はそう云う物だとは分ってはいるが時々辛くなるよ」

「あぁ・・・」

あの若い検非違使たちを思い浮かべる。そりゃ、あんな妖術合戦目の当たりにしたら腰も抜かすだろう。僕なんかまだ腰が抜けている位だ。そんな朧げな思考を京極堂は制した。その顔は真剣そのものだった。

「君は、本当は僕が恐ろしくは無いのか?」

懇願するような響きが関口の中に流れ込む。それは、自分が何時も周囲に対して抱いて居る感情に良く似ていた。

「・・・京極堂・・・」

「答えてくれ」

ああ、そうなのだこの男は・・・。いつも。自分が持つ力を怖れられている事を気にしていたのだ。肩に回していた手を軸に、体の向きを半周回し、向き合う。開いている片手を京極堂のわきの下から背に回し、優しく抱いた。京極堂は予期しなかった関口の行動に硬直する。

「君らしく無いぞ。何度も同じ事を聞くなんて、どうしたんだい?何だか君の方が僕を怖がっているようにしか聞こえないよ」

「関口・・・?」

「さっき言ったじゃないか。君の顔が怖いのは何時ものことだし、説教が怖いのもいつもの事だって。君の陰陽師の仕事に関しては、僕は何もいえないよ・・・。だってこないだ君は僕が答えたら、怒って帰ってしまったじゃないか。お陰で僕はあの後酷く落ち込んだんだぜ」

眉を顰めて上目遣いで言う。京極堂は、「あの時」の言葉を思い出した。あの後鬱になった関口から意図せず記憶を引きずり出してしまい内裏に担ぎ込んだことを思い出す。

「陰陽師は呪うのが仕事だ。鬼を払い鎮める力を持つ者は、いつか鬼と同化するんだ。人を呪うものは、いつしかそれが自分に戻り鬼に喰われる。そう。君の答えは図星だったから・・・逃げたのだ。結果君を傷付けてしまった──すまない」

京極堂があの時の苦々しい記憶を思い出しながら言うと関口は柔らかく笑った。京極堂は、自分に向けられたその笑顔に見惚れた。

「それが怖かったのかい?大丈夫だよ、君は鬼になんかならない」

関口は首を振って答える。その答えに、どくり、と京極堂は全身の血が駆け巡るのを覚えた。記憶の中の桔梗丸の声が重なる。

<あきひこくんは鬼になんてならないもの>

思わず鼓動が早くなる。───過去の記憶が、目の前に展開していく。重なる面影に翻弄されそうな心を押し殺して関口に問う。

「──どうして分かる」

<だいじょうぶだよ、あきひこくんのここは、とても暖かいもの───>

記憶の中の彼の声に体が震える。この言葉で、自分は鬼にならずに済んだのだ。京極堂に問われた関口は、京極堂の胸に頬を当てて優しく、でもしっかりと言った。

「だって君の此処は、暖かい───」

「・・・・!!」

思わず抱きしめていた。全身を包む懐かしい暖かい波。その波を感じた。それは間違いなく桔梗丸の───。

「京極・・・堂?」

不安げに関口が見上げれば、京極堂は何時になく優しげな顔で関口をみつめていた。

「何でもないよ、関口君・・・送って行こう。牛車はあれだ」

京極堂の示す先に、桔梗印が施された牛車が停車してあった。優しい声に京極堂が機嫌を良くしたと感じた関口は思わず付け加えて言ってしまった。

「それにさ、君が鬼になっても、今とあんまり変わらないような気がする」

ぴくり、と京極堂が反応し、立ち止まった。

「どういう意味だい」

関口がはっとして見上げれば、京極堂の眉間に見慣れた深い皺が刻まれていた。優しげな顔が一転、何時もの凶悪な顔に変わっている。関口は余計な一言を言ってしまった事に気がついていなかった。

「え?」

「やはり一人で帰り給え。どうせ僕は鬼だ」

凶悪な顔で笑みながらつい、と肩に凭れ掛かる関口を引き剥がしてすたすた一人で牛車に歩き出す。

「ええっ、嫌だよ送って行ってよ、京極堂ーっ!きゅ、急にどうしたんだい?え?ぼ、僕何か・・?あ、ぁ、ごめん、ごめんよぅー!置いていかな・・・あうぁあ!!」

追いすがろうとして足を縺れさせ、見事に顔面から転ぶ。額に手をやり、やれやれ、と言うように京極堂は全身で溜息をついた。

「本当に君は、聡いのか疎いのか───僕の心を乱すねぇ」

こうして、都を震撼させた鬼の事件は、収束した。

-九話・了-

読者用翻訳コーナー(笑)

文林郎・・・(ぶんりんろう。中国古代の役職名)
裴清・・・(裴世清ハイセイセイのこと。人の名前。隋の煬帝の命令で倭国を訪れた使者)
他我的・・・(ターウォダ/彼は私のです)
我是真的・・・(ウォシージェンダ/私は本物ですよ)
基本的に現代中国語を採用してますが、部分的に音訓読みを使用してます。
音訓読みは当時の唐で使われていたであろう音で、現在の広東語に近いそうです。
弟=テイ 現代中国語ではdi(ディ)
-続-

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